痛見心地

思ったこと感じたこと、おふざけ、メモ、たまに感傷的になったりと、ここは「しもうさ」の自由な文手箱です

参加:「日仏会館主催オンライン美術講演会 エドゥアール・マネの絵画」

下記イベントに参加しました
「日仏会館主催オンライン美術講演会 エドゥアール・マネの絵画」(講師 三浦篤) 2020/6/19開催

 

・マネ(1832-1883)第二帝政期を主要な活動期とし、第三帝政期が活動の後半期。マネは生涯にわたって数百点の作品を描いている。
・マネはブルジョワジーの家庭の息子。妻はシュザンヌ・マネ。レオン=コエラ・レーンホフは戸籍上は結婚前に出来てしまった子供で、年の離れた弟ということで世間には通していた。
・歴史画家であるトマ・クチュールに6年間師事。しかし、アカデミックな絵画には反発。
・当時のパリは、区画整理や大規模な整備によって生まれ変わろうとしていた(ナポレオン三世の主導によって、文化都市、近代都市として完成しつつあった)。
・パリの中心地からはなれた北西に、マネの活動の拠点が離れていく。クリシー広場の付近。マネはきらびやかな表面も、「小ポーランド」と呼ばれた貧民街に代表される裏側も知っていた。
マラルメ、ゾラ、ボードレールたちに支えれれ、マネはサロンに応募する。最初の作品は落選(1859)。実質的なサロンデビューは1861年の入選となる。63年の落選はナポレオン三世の意向で「落選者選」に出展される。64年の落選作品は評価が悪く、自分自身で切断(!)。
・64年は『死せるキリストと天使たち』という宗教的な死と『闘牛士の死』という世俗の死を対置的な主題として出展している。
・『オランピア』は、65年の入選。『兵士たちに侮辱されるイエス』という作品も同時に入選したことは重要。こちらも対になるように出展されたのではないか。『オランピア』『草上の昼食』は同じ63年に描かれている。
→①二つのヌード。女性と男性。②ティツィアーノカール大帝に宗教画とヌードを組み合わせて献呈したという逸話があり、それを踏まえたと考えられる。『オランピア』は伝統的な理想化されたヌードに対する挑戦。滑らかさのない肌。同時代のアカデミズム画家カバネルの『ヴィーナスの誕生』(1863)のものとは真逆で、かつそれがまた現実の娼婦を題材にしたものでもあるとされる、スキャンダラスな作品。
・65年夏に気分転換にスペイン旅行をし、ベラスケスの作品を見て、自分の作品と同質のものを読み取り、ますますベラスケスへの好感を示すようになる。『笛吹き』『悲劇俳優』は、その表れ。しかし二点とも落選(前年の影響か)。
・66年。『ゾラの肖像』『1866年の若い婦人「女とおうむ」』単独の人物像は同じ。しかし、非常に背景が豊かになっている。浮世絵やベラスケスの絵、自作品である『オランピア』の画中画が認められる。意味ありげなディテールを散りばめている。入選。
・マネはパリ・コミューンに共感を示していた。
・69年。二点の作品が入選。単独の人物像は単純なものも複雑なものも描いてしまったので、複数人の絵を描こうとしたのではないかと推察される。『アトリエの昼食』『バルコニー』。視線が交わらない、冷ややかな作品。物語性や寓意性、人間関係が希薄なのがマネの作品。それが色濃く表れている。人物が何をしているのか、どのような状況なのか、いまいちはっきりしない。
・70年。第二帝政期の最後のサロン出展。『エヴァ・ゴンザレスの肖像』『音楽のレッスン』絵画のレッスンと音楽のレッスンを対置したのか。エヴァはマネの唯一の弟子。入選。
第三共和政に入る。72年にも入選。普仏戦争パリ・コミューンの後の混乱をフランスが脱し切れていない時代。『「キアサージ号」と「アラバマ号」の戦い』。当時のカリカチュリストたちがサロン戯画を新聞に載せて、この作品を揶揄した。非西洋的、非慣習的な配置は歌川広重の『六十余州…』からの影響ではないか。マネのジャポニズム的傾向はマラルメも指摘している。
・73年。『休息』(70)、『ル・ボン・ボック』(73)。後者は絶賛される。マネが最も評価された作品。フランス・ハルス『陽気な酒飲み』(1628-30年頃)等を参考にしたのではないかと推察される。
・『鉄道』『ポリシネル』(入選)、『燕』『オペラ座の仮面舞踏会』(落選)。このあたりから、印象派に近づく。
・75年。この年は『アルジャントゥイユ』(74)が入選。しかし、『オランピア』と同じくらいの非難を受ける。何の変哲もない作品に見えるが、最も批判されたのはセーヌ川の描かれ方。壁のように平面的に塗られたことが批判の理由になった。新聞にカリカチュアが掲載されるほど揶揄される。浮世絵版画の影響があるのではないか、と三浦氏は指摘する。70年代半ばに色彩やタッチの面でマネは印象派に近づいた節があるが、印象派のアルジャントゥイユの描き方は全く違う。マネの陰気な冷徹なレアリスムとは対照的。セーヌ川河畔のレジャーでもあり、パリ近郊の産業都市でもあると、一枚の画面にアルジャントゥイユのすべてを集約している。これは、様々な断片的なビジョンを提示する印象派とは異なる特徴。
・76年。『洗濯物』75『芸術家』75、ボヘミアンタイプの芸術家と母と子という、全く異なるものを対置。
・77年。『ナナ』、『ハムレット役のフォール』。前者は高級娼婦を描いたような作品。小説の『ナナ』は80年出版。77年1月に出た『居酒屋』の最後にナナという少女が出て来る。そこから着想したのか。こちらは落選。後者は入選。
・79年。『舟遊び』『冬の庭にて』都会の男女のカップルの微妙な関係を積極的に描くことを始める。『ラトゥイユ親父の店』も。
・80年。『アントナン・プルーストの肖像』前者はマネの友人。マネを常に支えてくれた、恩義のある人間。
・81年。『ペルトュイゼの肖像』、『アンリ・ロシュフォールの肖像』。後者は、共和派の左翼系のジャーナリスト。男性像二点。
・82年。『フォリー=ベルジェールのバー』。
→描かれる女性は実際の劇場のバーのメイド。それまでのパリの現代生活、特に女性を描いてきたマネの結論ともいえる傑作。マネはアトリエにモデルを呼び描いた。鏡がずれていることが指摘される。空間表現が歪んでいることは意図されたもの。パラレルな存在を描いたのではないか。孤独に屹立してメランコリックな眼差しを前に向ける女性。華やかな世界ではあるが下級の女性が勤める世界を描いたもの。ベラスケス『ラス・メニーナス』(1656)を意識していたのではないか、と三浦氏は推察する。ベラスケスの集大成的な傑作をマネは別のレベルで描いたのではないか。ベラスケスの伝統的な絵画が終わりを迎え、マネに代表される近代絵画が始まりを迎えようとしているのに向けて、絵画史的に大きく繋がるような作品をマネが書こうとしたのではないかという事が考えられる。
・マネは四季の作品を構想していたと思われるが、あくまでも萌芽の段階で死んでしまった。
・『老音楽師』『皇帝マクシミリアンの処刑』(68-69)も重要。
・マネは19世紀パリの現代生活を主題として、自分自身の課題やテーマを提示していった画家。印象派との違いは、一枚のタブローに集約する、ある意味で伝統的な手法を最後まで捨てなかったこと、もう一つは卑俗なパリの同時代の様子を古典を参照しながら典型化していく(普遍化とは異なる)。その結果、どこかずれがある、という印象を我々は抱く。マネは、自由にイメージを操作していった。描く自由をとても感じさせる。思考や感覚を刺激する。近代絵画の先駆け。

【質疑応答】
・古典を参照することは他の画家もやっているが、マネは文脈を無視してダイレクトに引用してくる。コラージュの頻度が高い。自由さ、無頓着さが大きく異なる点。
・伝統を吸収しながら新しいイメージを作り出す手法を確立したのがマネの革命的な業績。
・古典画家において、風俗画はマイナージャンル。歴史画が最高のステータスを占めている。自然と感情移入できるような絵を「結果的に」作らなかった。マネの興味の問題。形態や、造詣への興味が意図せず生んだ特徴なのではないか。(物語性等の希薄さ)
・造形要素の自律性がマネにとって絵を描くうえでの魅力的なものであり、それが後世から見た時にフォーマリズムの起源に見えるといった方が適切。
・自分の絵がある「あたらしさ」(革新的要素)を持っていたことに自覚的であったことには違いないが、絵画史における革命というレベルでは見通せていなかったのではないか。デュシャンとは大きく異なる点。
・主な批評メディアは新聞や雑誌の批評文(テクスト)。当然、カリカチュアもあるが。
・レアリスムから印象派に続く革新的な画家はマネのような主題を選んだ。
・複製図版や版画と言う複製技術がマネのイメージ操作の自由度を上げたことは間違いない。
・マネの時代にはまだまだ官学のアカデミックな画家が大半を占めていた。
第二帝政ナポレオン三世)には反体制的な態度を持っていたことが分かる。
・官展(サロン)と言う国家主催の展覧会があり、毎年必ずマネは応募していた。落選することもある忌憚のない毀誉褒貶の応酬の場。
・1882年には無審査の特権を得て、フォリー=ベルジェ―ルのバーはそれで入選。翌年死去
・最初の作品は、「クズ屋」という同時代的な対象を主題にして描く。
→古典を参考にしつつ、現代の風俗や人物を描いた点にマネの独創がある。
1860年の時点では、フランスではスペイン趣味が流行していた。それに乗っかった堅実な作品を出し、夫妻の絵と共に入選。
・西洋絵画の根幹であるヌードに挑む。しかし理想化された裸婦ではなく、「現実の中の裸婦をどう描くか」という点にマネは腐心した。古典的なイタリア絵画から触発され、『草上の昼食』を描く。ジョルジョーネ、ティツィアーノ以外にも、ヨーロッパの様々な絵画流派を意識しながら、絵を描いていた。
・展覧会に出品する時はスペイン趣味の闘牛士の作品の真ん中に『草上の昼食』を配置しており、三面画のような伝統的な形式も踏まえていたのではないかということが推察される。
・マネの絵画は、『草上の昼食』、『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』、『オランピア』、『フォリー=ベルジェールのバー』、『笛吹き』、等が代表作として認識されている。