痛見心地

思ったこと感じたこと、おふざけ、メモ、たまに感傷的になったりと、ここは「しもうさ」の自由な文手箱です

メモ:村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて——クィア批評との対話』

初版2005年。人文書院から刊行された一冊

市場価格は4〜5万円、あるいはそれ以上で動かない状態を維持し続けており、入手には費用の掛かる一冊なのですが、以前運良く手にすることが出来ました。クィアに関心があるなら最早必読と言って良いレベルの名著なのですが、なかなか復刊しないことにはそれなりの事情があるのでしょう。今後も難しいのかもしれません。しかし待ち望んでる読者はそんなの知りませんし、無理なら無理な理由を共有して前進の意欲を見せない限りそれは知的怠慢です

 

個人的ベストを引用します。1万5千字程です

 

p.73

キャサリンギャラガーは、小説を読む際の「不信感の宙吊り」は、資本主義社会において生きるために必要なシニシズムとまさに同種のものであると論じている(Gallagher and Greenbratt 2000 :163-210)。物語を読むためには、そこで進行しているできごとが真実であるかどうか、棚上げにしておかなければいけない。同じように資本主義下で生存していくためには、おこなわれる商業上の契約が、ほんとうに未来においても正しく実行されるものなのか、不信感を棚上げにしておかなければいけない。とりあえず信じておくことで、読書と社会は円滑に機能する。要するに小説を読むことは、自分がいつでもやめられると思っているゲームの規則を学ぶことと同義である。シニシストは、自分が参加しているゲームから距離をとったつもりでいることができるわけだが、しかしその距離はほんとうに保証されているのだろうか。

pp.92-93

近代小説は、その出発点から女性の教育に携わる。パメラやセシリアに共感し一体化していく女性読者は、すでに文化の再生産のなかにいる。小説を読むことはしばしば、良家の子女には禁じられる破廉恥な行為だったわけだが、スキャンダルな読書の快楽は、教育装置としての小説の働きとまったく矛盾しない、という点はあらためて強調しておかなければならない。いずれにせよ小説は「内面」を描き出し、自己同一化の誘惑をささやく。読者がパメラに「なる」ことを期待されるから小説は教育的なのだし、だからこそ、どこの馬の骨とも知れぬ女中の内密なことばに読者が一体化し、汚染されるからこそ、小説は不道徳になるのだ。アームストロングは、リチャードソンとブロンテ姉妹を対比させて、『パメラ』が共同体の求める理想の女性像に一致した、つまり外面の立ち居振舞いと内面の美徳とが(二十一世紀の読者には信じがたくも)一致した女性を描いているのに対して、『ジェイン・エア』や『嵐が丘』では、共同体の規範に反する過剰な内面が前面に出される、という。もちろん彼女の論点は、『パメラ』がもっていた教育機能が、ブロンテ姉妹の作品では失われるということではない。変わったのは教育制度としての小説の機能ではなく、そこで教えられるカリキュラムにすぎない。いまや教えられるのは、「良きふるまい」ではなく、自立した内面、表現されることを待っている内面なのだ。しかしこうして内面が表象されればされるほど、自己同一化の誘惑はいっそうのぞき見的な形式をとる。イアン・ワットの古典的名著『小説の勃興』(一九五七年)がすでに的確に指摘していたように、リチャードソンが定式化した小説というジャンルは、プライヴァシーを、とくに性的なプライヴァシーを安全に覗くことのできる特権的形式だった。舞台では直接的すぎて描けない情景でも、文字テクストという鍵穴をとおして、主人公の「内面の襞」をとおしてなら表象可能になる。「活字のもつプライヴェート性、匿名性のおかげで、読者は鍵穴をとおして隣室をのぞき見し、レイプが準備され、企てられ、なしとげられるさまを他人に見られずに目撃するのである。読者も作者も礼儀作法を少しも犯しはしない」(Watt 1964 : 199) 。こうして女性教育の装置は、安全なポルノグラフィー装置でもある。そもそもプライヴァシーという概念自体、十八世紀後半以降の専業主婦増加に重なって女性性を刻印されている。小説を語る女性とは、自分のプライヴァシーを自分で生産しつつ、自分をポルノグラフィーの対象にすることで主体となる存在だといってもよい。

pp.105-107

反物語(主体否定)の欲動を物語の流れの欲動(内面形成)と単純に対立させるだけでは、男根的なプライヴァシーのエロス化の構造の外に出ることはできないとしたら、異なる読みの可能性はあるだろうか。いいかえれば、女性一人称の自伝的語りが、自らのプライヴァシーを形成しつつそれをポルノグラフィー化しないことに成功するとしたら、どのようなものになるだろうか。この問いに決定的な答えがあるはずもないが、これまでと異なる議論を示唆するとしたら、反物語への力の意志と物語への欲動の葛藤を、非 - 主体と真実の主体の対立としてでなく、まさに主体形成として読むという発想はありうるだろう。キャサリンギャラガー『ノーボディズ・ストーリー』は、十八世紀の女性作家たちが市場価値を得たのは、彼女たちが「ノーボディ」であったから、財産をもたず社会地位ももたず、したがってさまざまに異なる読者の共感の対象となることを拒むような具体性をもたなかったからだ、という。小説が共感の対象として優れているのは、それが現実に近いからというよりは、まさにそれがフィクションだから、共感の障害となるような具体的な身体性をもちようもないからだ。そしてアフラ・ベーンやシャーロット・レノックスは、その点で男性作家以上に小説的な存在意義をかちえたのではなかったか。ギャラガーがいっているのは、女性がより中性的で一般的な視座を保持できたということではかならずしもない。財産も縁故もない彼女たちは、筆一本で稼がなければならず、確固たる視座などもつ足場がないからこそ、著作権その他、作家としての権利は主張しなければならない。つまりノーボディがなんらかの普遍原理を主張できるとすれば、それは彼女が純粋に資本市場のなかにいるからでしかなく、だからこそ同じく市場のなかにいる消費者の共感を求めることさえできる。アフラ・ベーンが自らを娼婦と呼ぶのは、作家も娼婦も同じく身一つの商売だから、そしてなんの財産もない彼女が身を立てていくためには他に手段がないのだから、と自らの無垢!を訴えて女性観客の共感を誘うためだ。自分のプライヴァシーを売り物にする作家=娼婦の自己は、こうして男性に対してのみならず同性に対しても、パフォーマティヴに、演劇的に作られる。「この女性について知ることができるのは誤った表象ばかりだ。というのも女性作家の場合、娼婦の場合と同様、けっして知られることのない真正な自己の幻想は、それを売り物にしつつ表に出さないことで作られるからだ」(Gallagher 1994 : 17) 。ここでも真の自己、プライヴァシーは、一瞬読者の目に見えないところに保持されている。しかしルーシー・スノウの自己が発見しうると暗示されているのに対して、作家=娼婦の自己は幻に過ぎず、むしろこの表面と深層の乖離自体が、作り上げられた「自己」となる。正しい内面でもなく、礼節にのった内面拒否でもない娼婦像。われわれの文脈に引きつけていえば、カミングアウトが作り出すプライヴァシーとはそうしたものだろう。真のプライヴァシーが存在していると前提し、それを認めることがカムアウトなのではない。ポルノグラフィックな好奇の視線にさらされることをあえて引き受けて、パブリックな場に性的な存在として現れることで、プライヴァシーの領域自体を書き換えることができるかもしれない。内面へと向けた物語化の欲望を否定することはできないとしても、カミングアウトは、表面と深層の二分法を一時的にせよ消失させ、この欲望を失調させうるものになる。ドゥルシラ・コーネルの「想像的領域を尊重する」法哲学をここで想起してもよい。彼女の企図は、固定した「深い」アイデンティティに拘泥せず、しかし主体の自由の領域を社会的に維持することにあるからだ。自分自身によって作り出されるプライヴァシーは、必ずしも隠された内面でなくともよい。その作成によって社会関係が再構成されるのであれば。

pp.127-132

生物としてのヒトの不変の基幹部分をなす性的欲望。本質主義的なセクシュアリティ観が、十九世紀末以来、リベラルなホモセクシュアリティ擁護に力を与えてきたことは事実である。ホモセクシュアリティを「先天的なものとして理解し、それゆえに自然なものの領域に位置づけ」る(河口 二〇〇三:五)カール・ハインリヒ・ウルリヒスの姿勢は、解放へと向かう政治的な前進だった。しかしこのレトリックは、フォースターにおいても、しばしば医や法の言説においても、クローゼットと共犯関係を結ぶ。クローゼットは本質的な秘密を隠している――隠れているけれどたしか、曖昧だけれど決定的、それはこの秘密、つまり性的欲望という核が、公的に知られていようといまいと「自然な」事実だからだ。クローゼットはリベラルのメカニズムそのものといってもいい。個人の本質を維持したうえで、主体にアイロニカルな揺らぎをもたらすから、そしてこの揺らぎのなかでこそ、良きリベラルは良きリベラルへのなりかたを学ぶからである。欲望は、リベラル政治哲学の歴史において、躓きの石の一つになってきた。理性がひとまず個々人に共通する権能であると定義されるとき、あらゆる人は、正しく理性を用いれば、基本的に同じ道筋をたどって理性的な合意に達することになると考えられる。しかしこのとき個々人の欲望がどの程度まで共約可能であるかは、問いとして残る。欲望の差異性を、普遍的な社会システムへの合意に包みこむことはどのようにして可能なのか。単純な根源的な欲望を一つ、あるいは少なくともいくつかの組み合わせを想定して、人間の行動の原動力としての地位を与えればよい。ホッブズにおける死への恐怖、ヒュームにおける他人と交流したいという欲望は、そうした例である。他人もまたこれらの欲望にのっとって行動するからこそ、大まかに自分と同じように行動するという予想が成立し、最適な社会がそこから導き出されることになる。こうした議論では、欲望の差異性は問われることがない。スティーヴン・ホームズは『情動と抑制―リベラル民主主義理論について』(一九九五年)で、古典的リベラル哲学者の多くが情動を重視したことを強調し、人間の行動の非理性的な側面が彼らにはじつはよくみえていた、と論じている。リベラリズムは理性と公共心を重視するばかりで、人間のときに野蛮な情動を無視している、という保守主義からの批判に対する回答として書かれたものと考えてよいだろう。ところが逆説的にも、彼の論ずる「情動」は、私的関心をともなう理性的判断と、ほとんど区別がつかなくなる。ホームズのいうとおり、ふつう合理的計算によると思われる行動の多くは、実際には抑えきれない情動――痛みを避けたい、賞賛されたい、他人とつきあいたいーからきている。しかしそれらの欲望を誰もが例外なくもつと想定する限り、個々人は互いに了解可能な存在となり、願わくば普遍的な社会契約が成立して民主主義を導くだろう。欲望はたんに、普遍理性の一部をなす測定可能な要素となる。欲望をリベラリズムのなかに安全に位置づけようとする試みは、こうして功利主義トートロジーと化す場合がしばしばである。「最大多数の最大幸福」という理想は、誰もが共有するはずの欲望を正当化することから生まれる。そのときヘテロセクシュアルな欲望こそが、誰もがもつ原初的欲望の一つということになるだろうし、ホモセクシュアリティは、ジュディス・バトラーのいう「あらかじめ排除された」位置におかれることになりかねない。社会構築主義的な発想に慣れ親しんだわれわれにとって、セクシュアリティを「自然化」するフォースターは、規範的異性愛はむろん、そこからはみ出すさまざまな性のありかたも歴史と社会との相互作用のなかに存在していることを、ただ無視してしまっているようにみえる。そのとき、ホモセクシュアリティはへテロセクシュアリティ同様、あえて語る必要もない原初的欲望の位置を与えられるといってもよい。クローゼットのメカニズムにおいては、ホモセクシュアリティは特定の内容を失い、誰もがもつがゆえに特定化される必要のない(ヘテロ)セクシュアルな欲望と同じ地位に達する。リベラル個人主義はこうしてホモセクシュアリティを包含することができる。そしてフォースターを「生前ゲイであった作家」として論じようとするわれわれも、本質主義を完全に退けているはずはない。彼の(特定の)性的な秘密を特権化するところから出発するフォースターのクィア的解釈は、いつのまにか作家の主張にとりこまれて、(不特定の)秘密の欲望を、どの主体にもみられる核として前提してしまっている。一九八三年のロバート・K・マーティンの論文を嚆矢として、フォースターはエドワード・カーペンターに倣って「自然な」欲望を讃えた、という議論がゲイ・スタディーズの側から語り直されている。フォースターをゲイ民主主義の伝統におく議論が好むテクストは『モーリス』であり、実際この田園物語においては、農夫アレックが、無垢な自然の体現者として、階級の障壁を越えた肉体的愛にモーリスをいざなう。マーティンやクロード・サマーズがまとめているとおり、ケンブリッジにおけるモーリスともう一人の恋人クライヴの関係は、ジョン・アディントン・シモンズの教義に沿ったよりプラトニックで高踏的なものであり、これが最後には抑制されない、階級を超越した性愛によって来り越えられる。こうした「自然なセクシュアリティ」の賛美が、社会的抑圧の拒絶からきていることは確かだ。グレゴリー・W・ブレッドベックは、ホイットマン-カーペンター - フォースターというゲイ・リベラルの伝統をたどるみごとな論文で、カーペンターのセクシュアリティ賛美は、「欲望」なるものの否定と結びついている、と指摘している。彼の主張によれば、カーペンターはほとんど精神分析的な欲望の概念主体は、自分に欠如しているものを欲するがゆえに、けっして満たされることがない――をもっていた。「愛の新時代」(一八九六年)において、カーベンターは性的快楽を、「求めること」、つまり主体の欠如を埋めることへと向かう衝動とはっきり区別している。

[性的快楽に]ともなう不満足は[…] 快楽そのものではなく、求めることの性質のなかにある。外的なものを追い求めるとき、「わたし」は(本来はすべてをもち、なにも必要としないのだが)おのれを欺き、真の家から飛び出して、みずからを引き裂き、裂け目、亀裂をみずからの存在に見いだす。これこそ——みずからの存在を切り離し、分かつことこそ——罪ということばが意味するものだと考えねばならず、すべての苦痛はこれとともに生じる。苦痛は、外部のものや快楽を捜し求めることにあり、(たびたびいわれるのとは違って)外部のものや快楽それ自体にあるのではない。(Carpenter 1984: 102, Bredbeck 1967:334-35 に引用。強調原文)

カーペンターの「求める」ことの概念はほとんどラカン的といっていいが、彼の「わたし」、自己の概念はそうではない。精神分析の自己が不完全さによって定義されるのに対して、カーペンターの自己は、本来自己充足した完全体であり、満たしえない欲望に駆られる必要などない。彼の意図が、性に対する西洋近代の抑圧とともに、性への過剰な意味づけを取り除くことにあるのは明らかだ。「快楽は自然なものとして、性に(実際のところ必然的に)ともなうものとして、一種の自由な信仰とともにやってくるべきであり、生の目的として追い求められてはならない」(Carpenter 1984 : 103)。快楽は欲望の次元と切り離され、前者のみがあるべき性のありかたとして称揚されるわけである。ここで一つの偉大なリベラル個人主義の神話を思い起こしてもよいかも知れない。ロビンソン・クルーソーは、およそあらゆる種類の快楽が希少な場所に暮らしながら、自分がもちえないものへの欲望を表に出すことがなかった。彼が欲望するものは、彼が自力で作り出しうるものと一致する。もたざるものへの性的欲望をもたず、したがって近代的なメランコリーとも縁がないこの存在が、近代個人主義の一つの象徴となるとき、起こっているのはまさにカーペンター的な性の自然化=充足化なのだ。ブレッドベックは、この分裂を知らない自己の概念を、ホイットマンの「わたし自身の詩」の拡大していく「わたし」の系譜に正しく位置づけたうえで、さらにカーペンターの「民主主義に向けて」の分析へと進む。彼の考えでは、ヒンドゥー哲学の影響下にあるカーペンターの思想は、ホイットマンのような超越的なものではなく、時人のナルシシスティックな巨大化傾向をもたない。超越論を批判しつつ、「完全なわたし」の概念を擁護しようとする彼の口調は、ディコンストラクション的な主体批判に近づいてゆく。カーペンターの愛は、いわば非同一化のプロセスである。自己はじつは自分の全体性を維持しているわけではなく、もはや自分にとって外的なものではない愛の対象と一体化するからだ。彼はたんにホモセクシュアリティを讃えているのではなく、「あらゆる主体を西洋の主体概念のシステムから解放する」(Bredbeck 1997 : 50)ことを狙っているのであり、そして「互いに衝突するさまざまな存在のモードのあいだで引き裂かれる」(55) フォースターもまた、ただホモフォビアを非難しているだけでなく、アイデンティティという概念自体への根源的な批判の可能性を示唆している。われわれは第一章でエーデルマンに、第四章でデイムズに触れてきたが、ブレッドベックもまた彼らと同様に、脱構築的な立場から主体について語る批評家である。第四章でわれわれがみたのは、主体の同一性への批判が反転して、結果として空虚であるとはいえプライヴァシーの領域が保持されるという事態だった。ブレッドベックの「非同一化」の概念にも同じことはいえないだろうか。再三くりかえしているが、リベラル政治は、アイロニカルな、まさに自分自身に対して同一にならずに距離をおく「引き裂かれた主体」によって成立する。そしてフォースターの(隠れた)セクシュアリティについて語ることは、その分裂した主体になおかつ語るべき核を見いだそうとすることでもある。クィア批評は、本質主義アイデンティティの概念から完全に離れることはできない。文化的制約の構造を切り捨てて前向きにセクシュアリティを語ることは、生物学的「本質化」の危険をともなわずにはおかないのであり、この本質化がアイロニカルな分裂性と矛盾しないのがクローゼットの磁場なのだ。

pp.148-150

探偵の仕事は、ある集合——ここでは「理性的な説明」なるものの集合ということになるだろうか——がいったん閉じた世界に現れて、そこに新たな「一つ」を付け加えることである。不可能を可能にすることによって、世界を構成するものの無限の列挙に、また一つの暫定的な閉じかたを与えること。そして彼はこれを、犯人の欲望を読むことによっておこなうのだ、とコプチェクはいう。『わたしの欲望を読みなさいーラカン対歴史主義者』という書物において、副題で対比されている二つの思考の決定的な違いは、彼女のいう「歴史主義」、フーコーの権力論を敷衍していく思考法が、欲望の次元をまるで考慮に入れないこと、あたかも社会が事象の列挙によって記述でき、閉じることが可能であるかのように、「権力」というシニフィアンが究極のシニフィアンであるかのようにふるまっているところにある。「歴史主義」(ジジェクによれば、「主人のまなざし、歴史を安全なメタ言語的な距離をとって眺めるもの」 [Žižek 1992 : 80]には、二つのもの、欲望と「最終的なシニフィアンの欠如」が欠如しているというのだが、この二つの欠如は同じことである。最終的な対象にけっしてたどりつかず、つねに転移し、幻想によって対象aにつなぎとめられているのが、精神分析における欲望なのだから。ここにコプチェクのフーコー批判が、ありがちなリベラル左翼の批判と決定的に異なる点がある。リベラルなフーコー批判は、フーコーの「権力」——すべてを包みこみそれに敵対するものも生産する社会的力——と「自由」とを対立させ、フーコーとその追随者の世界には「自由」がなくしたがって希望もない、と続けるわけだが、コプチェクは自由ではなく欲望を権力と対比させる。コプチェクの探偵小説論で直接批判されるD・A・ミラー「小説と警察」の狙いは、フーコーの権力論を小説に応用して、小説というリベラルな空間が、自由を生産しているかにみえて、いかに権力に取りこまれているか、を示すことにあった。「権力」が古典的探偵小説を取り巻く場でもあるブルジョワ・リベラルのイデオロギーとほぼ一体とみられている以上、ミラーの図式では、犯罪者は自分の「自由」を信じて、権力の外部に立って体制を翻弄しようとするのだが、結局捕えられる。「自由」はむしろ、体制に順応し、その内側にとどまる者にこそ属する、という故調が読者に与えられるのである。つまり彼の重点は、犯罪がかならず解決され世界が閉じることにあるのだが、コプチェクからすれば、それは統計の自明さを信じている人々と、その不可能を知りつくす探偵とを同一視してしまうことである。探偵は統計の刺余としての欲望を読む。たとえば、じつは書斎に入った主人はやはり極の扉の奥にいたのだが、扉を破ってそこに踏み入った者は、無意識にそれを認めたくなかったがために彼を見なかった、といったこともありうるだろう。もちろん当人はそれに気がつかない。「生憎何も見えやしなかった。僕は取り分け普通の人間だ。人に見えないものが見えたりはしないんだ!」(京極 一九九四 : 一八八)。警察なら、目撃者は吸をついている、と考える。しかし優れた探偵なら、人間は自由な意志によって嘘をつくのではなく、不自由な欲望によって盲目になるのだ、と答えるだろう。そして統計が支配する整然と淀んだ共同体にもし外部があるとしたら、それはこの一瞬説明のつかない欲望だろう。だから探偵は、事件のたびごとに、あと一つの欲望を、整然としたコミュニティの規則に組みこんでいかなければならない。

p.158

コプチェクが、ロラン・バルトの「声のきめ」について語るとき (Copjec 1994 : 228)、またシルヴァマンがおなじくバルトの『明るい部屋』における「スチュディウム」と「プンクトゥム」の概念を語るとき (Silverman 1996 : 180-185)、いずれも強調されるのは、バルトがほとんど恣意的に既存のコードを逃れ、個人の眼(あるいは耳)が、およそ説明できない享楽を体験していることである。しかしこうしたきっぱりとした分類で抜け落ちてしまうのは、欲望ということばがどうしても二つの次元、〈他者〉の象徴界現実界の、両方にまたがってしまうこと、そしてわれわれがみてきた探偵の機能は、この二つのあいだの一時的な移行にあることではないだろうか。ミチャシュウの議論が危うくなるのは、眼の側の欲望と、〈他者〉の意向に沿ってモノ自体から主体を防御する欲望とを、彼がどうにか切り離そうと試みるときである。

pp.170-171

死を賭してまで、なにがなんでも兄を正しく葬ろうという己の幻想に忠実なアンティゴネーは、あらゆる困難を無視して突き進む。享楽はめったに訪れないが、しかし訪れたときにはどのような障害も破って主体を前進させ、あたりを一変させる真の「行為」をなす。こうした享楽は、ペニスを通じて日常的に出会えるようなものではないから、まなざしの制度的な力と混同されようもない。アンティゴネーの絶対的かつ例外的な享楽の強調は、安易に〈モノ自体〉を見いだすような態度への戒めとして働く。もっともこれもまた、われわれがすでに危惧していたような、絶対的な制度の外部、眼に属する独自の享楽を、あまりに概念として固定化してしまう方向だろう。ペニスとファルスの短絡をしばしば批判されてきた精神分析は、眼の、現実界の倫理をいっそう厳しくまなざしの領野から切り離し、さらにそれをアンティゴネーという女性に結びつけることで、男根中心主義という誇りに対抗し、同時にまなざし的なるもの批判の空間を確保しようとしているようだ。『操り人形と小人』でジジェクは、われわれの批判にあらためて答えるかのように、現実界象徴界の峻別に警告を鳴らしている。「〈現実界〉は〈象徴界〉の外部にあるのではない。 [……] (象徴界〉と〈現実界〉を分けることは、象徴的な身ぶりの最たるものであるだけでなく、象徴的なものを創設する身ぶりそのものでもある。〈現実界〉に足を踏み入れることは、言語を捨てて、混沌とした〈現実界〉の深淵に飛びこむことを意味しない」(Žižek 2003:106)。ジジェクの理論的立場は一貫しており、現実界とは言語とは別に存在する闇のことではなく、言語の内的な限界のことである。しかしその意味ではつねにどこにでもあるはずの現実界は、同じジジェクの著作のなかで、アンティゴネーやドン・ジョヴァンニをとおして、実体的かつ特別な場を与えられている。そのときふたたび、「岩のごとく」固い、堅忍不抜の欲動が姿を現す——どのようにしてそれが現れ、真の享楽の地位につくかはわからないが。〈他者〉を逃れる、このどうにもならず狂ったような欲動を強調することで、ジジェクやジュパンチッチは、制度を超えた倫理を語ろうとする。しかし彼らの文体は、やはり欲望と欲動を峻別し、その横断を圧殺して、明晰な秩序を打ち立てているようにみえる。これに対して、ほとんど同じ立場に立っているコプチェクの探偵小説論に、わたしがより親近感を抱いているのは、そこに欲望の移動があるからだろう——まなざしから眼へ、密室から新たな合理性へ。そのような移動の瞬間を見いだすことこそがわれわれにとっては快楽であり、この一瞬のぶれは、ひきつづき次章の主題でもある。

p.202

マゾヒズムとは、自己をむりやり外部へと開き、不快なものにあえて身をさらすことであるだろう。問題は、こうして自己を開くこと自体が、自己を拡大する営みでもあることだ。事実フロイトは、快感自我の発達以前には、より大きな、あらゆるものを包みこむ自我があったという。

pp.211-216

セクシュアリティの根源的な単独性は、『救済の文化』(一九九〇年)の昇華・ナルシシズム論でも徹底されている。ここでベルサーニは、文学や芸術が、現実の生における挫折や不完全性を救い、補償するものであるとする「救済」の発想を批判する。通俗的な昇華の概念では、セクシュアリティの領域における抑圧は、非性的なべつな領域に転換されるが、『救済の文化』においては、既定の「本来のセクシュアリティ」が存在し、昇華の対象はそこ以外に属するとする二分法は退けられる。他者=対象を消し去るベルサーニの方法は、この点ではゲイ・スタディーズが精神分析を利用し批判する際の一般的な姿勢と重なり合っている――欲望には決まった回路はなく、あらゆる対象に付着しうるし、だからフロイトがなんとか守ろうとした、幼児の多形的欲望から成人のヘテロセクシュアルな欲望への発達の物語は、幻想でしかない。ベルサーニは、フロイトのいう肛門性格が実際の肛門の快楽と切り離されているところから説き起こして、昇華は、そしてあらゆる性的経験は、現実にたまたま出会うだけの性的対象からじつは本質的には切り離されている、と論じている。セクシュアリティはそもそも特権的な対象をもたないのだから、昇華もまた性的リビドーの現れ方の一つにすぎない。こうしたフロイト読解が、異性愛中心主義の批判として有効なのはいうまでもない。問題は、この議論が「対象は定まっていない」にとどまらず、「対象は存在しない」と進むことだ。『性理論三篇』と「ナルシシズム入門」を読み進めるベルサーニは、自己愛をセクシュアリティの出発点であると唱えた上で、さらに進んで、その自己愛が解体する契機こそが自己の、したがってナルシシズムの原点なのだ、という驚くべき、とはいえ彼のプログラム全体からすれば当然の主張をおこなう。「自体愛の本能は最初からそこにある。ナルシシズムをもたらすには、自体愛になにか、一つの新しい心的な作用が付け加えられなければならない」(フロイト 一九六九c:一一二)とフロイトはいう。自体愛の段階では、統一された自我はまだ存在せず、断片的な各部位の感覚があるだけだから、フロイトはたんに、統合された自我がナルシシズムと同時に生まれるといっているようにみえるが、あいにく「自我の発達は一次的ナルシシズムからある距離をとることによって成り立つ」(一三〇)。したがって(断片的)自体愛、一次的ナルシシズム、(統合的)自我という三段階があることになるが、それでは自我に先立つ一次的ナルシシズムとはなにかといえば、フロイト自身はおよそ明確でないとしかいいようがない。ベルサーニは、ナルシシズムをもたらす「新しい心的な作用」とは、昇華、つまり明確な対象をもたない性的リビドーの備給であるとみなす。そしてこの時点では明確な自我がまだ成立しておらず、自我は自らと外部を区別することができないのだから、このリビドーは目標として自我以前の混沌とした「自己」に向かうしかない―これこそがナルシシズムである。つまり「自己」は最初から破壊され、断片化したものでしかありえず、ナルシシズムとはその破壊をこそ愛することなのだ。ナルシシズムを、本来他者へと向かうべき対象リビドーがたまたま自己に向けられたものとみなす、フロイトの(フロイト自身の洞察を裏切る)穏当な方向性はこうして全否定される。まず対象愛があるのではない。あるのは無への=自己への充当である。「昇華は性的な興奮を、ありとあらゆる偶発的な機会から蒸留する企てであり[……] そうした機会を燃やし尽くすこと、むしろただ純粋に燃えることの夢である」(Bersani 1990 : 37) 。こうした議論に対して、「ナルシシズムは対象をもたないと考えるとしても、昇華に対象がないという主張はとうてい受け入れられない」と、『女なんていないと想像してごらん』のコプチェクは批判している。根元に無のナルシシズムがあるとしても、リビドーの外的な対象は現に経験的に存在しているではないか。「ナルシシズムも昇華も、いっさい対象備給から独立していると考える」ベルサーニにおいては、性的な情熱のすべてが「自閉的なものに留まるしかない」(Copjec 2002 : 61)。「自己」とは、逆説的にもみずからが破砕する可能性を主体が感じたときに出現する、というベルサーニの議論を、コプチェクは受け入れているが、それでも彼女は、対象への、他者への欲動すべてを、こうして自己破砕のプロセスに回収してしまうことに異議を唱えているのだ。ベルサーニの思想が、異なるものの合一、一体化、相互理解、といったことばで語られる通俗的な性愛の概念への優れた批判であることはいうまでもないし、コプチェクも、合一を理想とするようなセクシュアリティの概念を復活させるつもりはないだろう。ただし彼女は、すべてが主体の内部で起こるかのような語り方は拒否して、欲動の対象が主体の外部に存在することにこだわっているのである。「欲動は、ミルクによっては満足しないというだけでは不十分で、すぐに付け加えて、欲動はにもかかわらず乳房によって満足するといわなければならない。欲動の対象は存在している」(61)。コプチェクはある意味常識的経験論に後退してみせて、自閉性に警告をならしているわけだ。われわれがさまざまなかたちでくりかえしてきた問い ークィア批評における「ゲイ」は、経験的に存在するゲイ・アイデンティティとどこまで重なるのか は、ベルサーニにおいてはこうして、独我論がどの程度他者=対象を組み入れられるか、という問題におきかえられる。そしてこれこそ『ホモズ』と『カラヴァッジオの秘密』が取り組んでいる問いだろう。『ホモズ』は、ゲイのゲイ性、固有性にこだわるところから始まる。「ゲイの不在」と題された第二章でのベルサーニの憂いは、「同性愛者」というカテゴリー自体への構築主義的批判が、むしろゲイの存在を見えなくしているのではないか、というものだった。これはわれわれが再三くりかえしてきた、脱構築クィア批評の問題点の一つである。モニーク・ウィッティグのような本質主義ジェンダー観の批判者は、男女の差異自体を解体しようとするが、結果として彼女はレズビアンアイデンティティまでをも解体してしまう 性差なしには同性愛の観念自体が成立しないからだ。つまり極度にラディカルな性差の批判は、ゲイの固有性を消去してしまう点では、なまぬるい同化のポリティクスに、つまりゲイがゲイのセックスにおいて成立していることをひとまず忘却し、人種的マイノリティと同じように、あらゆる人間が有しているはずの普遍的な人権の平等を求めるという政治姿勢に一致してしまう。「性的嗜好からくるアイデンティティの本質化を拒絶するとき、ホモフォビアへの抵抗から、抵抗の担い手は消しさられてしまう」(Homos 56) 。同性愛の固有性はけっして失われてはならないわけだが、しかしそのアイデンティティを語るベルサーニのレトリックは乱反射を生む。異性愛が性差という差異の特権化に基づいている以上、それと異なる同性愛の差異性は、なにより同一性に、「同じさ」にあるのだから。「同じさ」(セイムネス)という異なるアイデンティティを受け入れるのではなくラディカルに書き直すこと——アイデンティティの概念そのものを拒絶すること——によって、われわれを抹殺しようとするホモフォビアの企てに参加してしまう危険がある。同じさの固有性を強調することによってのみ、われわれを不可視にする規律の戦略との協働関係を免れえるのだ」 (42)。とりあえずこの「同じさ」は、あるゲイとべつなゲイが「同じ」アイデンティティをもっていることを指すのだろう。しかし同性愛の「同」の部分の固有性、つまり男と男は「同じ」という意味が、ここに響いてこないわけにはいかない。そしてこの意味での「同じ」は、男女の性差という「違い」に依拠したものでしかないのだ。事実、同性愛の欲望の特殊性としてベルサーニがまずあげるのは、性差を越えた同一化である。「女性の他者性を取り入れ肉体化することは、男性同性愛者にとって、欲望の素材の主たる源泉である」(Homos 60) 。同性愛が「同じ」であるためには、男女の性差は破壊されてはならない。ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』は、一見ジェンダーの擾乱を記述しているようにみえるかもしれないが、むしろその擾乱性が「いかに規範に依拠しているか」(51)に自覚的であることをベルサーニは評価する。「同性愛の欲望は、すでにそれ自身とは異なるものに同一化した自己の視点からの、同じものへの欲望である」(59)。クィアになるためには、違ったものに同一化するためには、まずアイデンティティが、差異がなければならない。つまりベルサーニにとって、ゲイであることはすでにクィアであることであり、同性に欲望(同一化)するために異性に同一化(欲望)することが、ゲイ・アイデンティティを意味する。こうして男性同性愛をつねに女性化として語ることにはわたしは賛成しないし、前章で述べたように、この方法が異性愛規範を乗り越えることはけっしてない。しかしベルサーニは、いたずらに規範を乗り越えることに可能性を見いだし、現にある欲望のメカニズムを捨象することに我慢がならないのだろう。ゲイ・アイデンティティは、規範に縛られた戯れによってしか生み出されないのである。