痛見心地

思ったこと感じたこと、おふざけ、メモ、たまに感傷的になったりと、ここは「しもうさ」の自由な文手箱です

メモ:竹村和子『フェミニズム』

初版2000年。岩波書店から刊行

 

この本の「はじめに」を定期的に読み返したくなるので、自分用にメモします。まあ全てのメモは自分用なのですが。なお、原文では読点はカンマ、句点はピリオドでしたが、読み易さのため馴染みのある方に改めました

 

この「はじめに」をなぜ定期的に読み返したくなるかと言うと「自らの立場に対して批判的であるとはどういう事か」つまり知性とは何かを教えてくれる第一等の名文でもあるからです

 

はじめに——いまフェミニズムを書くことについて

結局、問題はあるのだろうか。もしも問題があるとすれば、それはどのようなものなのか。本当に、女というものがいるのだろうか。

シモーヌ・ド・ボーヴォワール

フェミニズムについてまとまったものを書くということを聞いた知人たちから、「フェミニズムに戻るのか」とか、「フェミニズムについてあなたはいったい何を書くのか」と、ときどき尋ねられる。こういった発言の裏には、セクシュアリティについて語ることとフェミニズムについて語ることはべつの問題である、あるいはセクシュアリティ研究が出現した今となっては、フェミニズムは古い批評の枠組みだ、という考え方があるように思われる。同じことが、ジェンダー研究とフェミニズムの関係、カルチュラル・スタディーズフェミニズムの関係にも当てはまる。けれども他方で、ジェンダーセクシュアリティという用語が意味している内容も、漠然とは推測されても、どこか腑に落ちないと思っている人々も多いのではないだろうか。そのような人々にとって——ましてやフェミニズムは一過性の流行、あるいは多くの差異化軸のひとつで、それに興味をもつ人だけが論じる局所的な、あまりにも感情移入された主義や主張であると思っている人々にとって——ジェンダーセクシュアリティは、フェミニズムよりもさらに胡散臭い概念で、それらとフェミニズムの関係など、どちらでもよい問題なのかもしれない。

セクシュアリティは、社会的・学問的な文脈で最近語られるようになってきた比較的新しい言葉である。セクシュアリティとはいったい何なのか。あるいはそれとの関連でふたたび呼び起こされている——あるいは新しく意味づけなおされているジェンダーとは何なのか。それよりもそもそも、フェミニズムとはいったい何なのか。フェミニズムという言葉は、本当にいまも、そしてこれからも、有効な用語でありつづけるのか。結論を先取りして言えば、わたし自身はフェミニズムという語彙は、性の抑圧的な関係機構を批判的に読み解こうとする理論的な企てにとっても、また現在の性抑圧の形態を解体していこうとする実践的な企てにとっても——厳密に言って——瑕疵のない最適な用語というわけではないと思っている。フェミニズムは英語から入ってきた外来語だが、『オックスフォード英語辞典』(第2版)によれば、ここで言うフェミニズムの意味は、「(両性の平等という理論にもとづいた)女の権利の主張」と定義されている。この定義にしたがえば、次の二つのことが前提とされる。一つは、少なくともフェミニズムが存在している社会においては、女の権利は奪われており、ひるがえって男の権利は守られていること(そう認識されていること)、もう一つは、性的に抑圧されている者(「女」と呼ばれている者)は、「女」という立場を維持したまま、その十全な権利を主張していくということである。これらの前提から類推される事柄は、社会の成員は「男」と「女」に二分され、この二つの性のあいだの力学に不均衡が生じていて、フェミニズムは、権利を奪われている女が、権利を過剰に付与されている男に対して異議申し立てをするものだという図式である。フェミニズムを語る者は、たいていの場合女ということになり、その女たちは男を「敵」と見て、男の特権に挑戦すると思われている。だからフェミニズムに直面した男は、ときに女の舌鋒に驚き、怯み、あるときは女の挑戦を、風車に挑むドン・キホーテのように的はずれなものと見なしてやりすごす。社会が——少なくとも日本の社会が——フェミニズムに対して抱いているイメージは、個別的な例はべつにしても、現在のところは大なり小なりこのようなものだろう。そのような社会の受け止め方のなかでは、たとえ男が、この性の不均衡はもしかしたら自分自身を呪縛しているのではないか、自分を「男」にしている特権が逆に自分を苛んでいるのではないかと感じはじめても、その男は、フェミニズムという枠組みのなかで思考することには居心地の悪さを感じ、「男性学」や「ジェンダー研究」という枠組みが自分にとっては適切なものだと思いがちになる。あるいは「女」と一括りにくくられても、いわゆる「女」を愛の対象にしている者は——「男」同士のあいだでも同じことだが——「女の権利の主張」に自分を当てはめることが、はたして適切なのかどうか疑問を覚えてくる。むしろ性的な意味づけを攪乱する「セクシュアリティ研究」の方が、自分が被る抑圧をもっと厳密に取り上げているのではないかと考える。あるいは同じ「女」でも、国籍や民族や職業や地域性などによって立場や条件がずいぶん異なることを痛感している人々は、「女の権利の主張」だけではもはや間尺に合わないと思い定めて、それよりも多角的で複眼的な視野をもつと思われる「カルチュラル・スタディーズ」に活路を見いだすかもしれない。

フェミニズムという言葉が「フェミナ」(女)という語を母体に作られた造語であるかぎり、このような反応は避けられないことである。しかしこれは語源的な問題というだけではなく、「女」に対する圧倒的な抑圧に対抗してきたフェミニズムの理論や実践が、その歴史的な経緯のなかで必然的に伴わざるをえない限界である。このように、性の抑圧に対する個別的また包括的な批評理論や政治実践において、フェミニズムという語を使用することはかならずしも最適な選択ではないことを承知しながらも、それでもなおわたしは、少なくとも現在では、フェミニズムという言葉を手放したくはない。その理由は、けっしてフェミニズムを「女の権利の主張」という枠に閉じこめて、「女」を理論の基盤、あるいは解放されるべき主体として、保持したいと願っているためではない。わたしがフェミニズムという用語のもとにしばらくは思考を進めようと思っている理由は、「女」であることはたやすく身体的な次元に回収され、そして身体は還元不可能な与件だと理解されているので、もっとも根源的な本質的属性とされている「女」というカテゴリーを根本的に解体することなく、「男」に対する抑圧も、「非異性愛者」に対する抑圧も、また性に関連して稼動している国籍や民族や職業や地域性などの抑圧も、説明できないのではないかと危惧しているからである。したがってわたしは、フェミニズムはけっして恒常的で永遠に機能する批評枠ではないと、一方で理解している。たしかに性にまつわるさまざまな抑圧が、「男」と「女」の意味づけをめぐって——とくに「女」の意味づけをめぐって。なぜなら、普遍と同義とみなされている「男」は定義される必要がないから——いまだに展開しているかぎり、「女」の意味を徹底的に解析することは不可欠の要件ではある。だがもしもその結果、「女」という概念が社会的にも言語的にも有効でなくなるときがくれば、そのときフェミニズムは、その使命を終える。さきほどフェミニズムは「フェミナ」(女)という語の派生語だと述べたが、もっと正確に言えば、フェミニズムは、女(フェミナ)という概念を自然化せずに前景化して、思考の俎上にのせる(イズム)ということである。フェミニズムは「女」というもっとも身体化されている存在、本質化されている存在を切り開いて、それを歴史化すること、つまりそれをとりまく社会関係の糸をたどり、「女」というカテゴリーのみならず、それと相補的な関係にある「男」というカテゴリーを解体し、そして女と男という「異なった二つの性」を必須のものとしている異性愛主義の怪桔——「非異性愛者」だけではなく、いわゆる「異性愛者」をも呪縛している桎梏——を明らかにすること、またひいては、「女」のアナロジーを利用して戦略的に説明されてきた他のさまざまな抑圧形態から、そのアナロジーを奪い去ることである。したがってわたしが念頭に置いているフェミニズムは、女に対して行使されてきた抑圧の暴力から女を解放することを意図しながら、同時に、そのような「女の解放」という姿勢自体を問題化していくこと、つまり「女」という根拠を無効にしていくこと——まさにフェミニズムを、現在女と位置づけられている者以外に開いていくこと——である。言わば、フェミニズムという言葉を手放さずにおくことによって、フェミニズムという批評枠を必要としなくなるときを夢想することである。この企ては途方もない離れ業で、うまく行くかどうか心もとないけれども、このような視点こそが、今の時代によって要請されているフェミニズムだと信じて、本書を書きすすめたい。

このような枠組みで思考していく場合には、女や男や異性愛者や非異性愛者という言葉には、つねに、〈いわゆる〉という意味の「 」(括弧)が付けられるべきだろう。しかし煩瑣になることを恐れて、その構築性や虚構性をとくに指摘する場合を除いて、本書では括弧をつけずに使用する。

本書の第Ⅰ部では「どこから来て、そしてどこまで来たのか」というタイトルのもとに、フェミニズムを思想と運動の両面から歴史的に考察して、どのような問題系が浮かび上がってくるかを論じたい。したがって第I部は、これまでのフェミニズムの概括であると同時に、わたし自身の視点と問題意識で切り取ったフェミニズムの歴史である。現在のフェミニズムの理論はあまりに「理論的」で、実践や運動から乖離しているという批判が、フェミニズムの内部からさえ起こっている。しかし理論の軌跡はつねに、過去の実践が経験してきた困難さやアポーリアに分け入り、またそのすぐそばまで来ながらも避けて通ってきた事柄に対峙して、わたしたちの生の荊棘を解きほぐそうと試みる現実的で内在的な願いの軌跡である。第Ⅰ部では、実践と理論、歴史と構造の相互連関性に目を向けたい。女性解放思想もふくめてフェミニズムの歴史を大きく概観すれば、フェミニズムは、法的・制度的な権利の要求から、社会的な慣習の再考へ、さらにはセクシュアリティや愛という心的・身体的な事柄の追求へと推移していった(ママ)言えるだろう。むろんこれらの考察対象は相互に関連しており、けっして直線的・段階的に移行してきたわけではない。その歴史的経緯をふまえつつ、第 II 部では「どこへ行くのか」と題して三章に分け、これとは逆の順番で、「身体」「慣習」「グローバル化」に焦点を絞り、各章で考察したいと思っている。その理由は、もっとも個人的なものと見なされている心的・身体的なものに関する認識や行為の変容をみずからに課すことなく、どのような社会的慣習や政治的制度の変革も、究極的にはありえないと考えているからであり、そのように一見して「個人的な」認識や行為の変容が、個人をとりまく——あるいは個人そのものである——社会の姿を変えていくと考えているからである。またさらには、わたしたちはもはや、参政権運動といった一国のなかで解決しうる政治の世界に生きてはいない。好むと好まざるとにかかわらず、わたしたちの政治の問題は、「地球」の問題でもある。性の制度とて、その例外ではない。そしてたしかにグローバル化はこの意味で現代の概念であり、とくに最近の経済的・政治的・文化的な距離の圧縮と変形によって推進されているものではある。しかし19世紀中葉にはじまった一国の参政権運動が、すぐに「国際女性協会」(1868年創設)や「国際女性評議会」(1888年創設)に向かっていったように、性の制度を国境を横断して考察する必要性は、現代だけの要件ではない。むしろフェミニズムがそれぞれの局面で直面してきたなおも直面しているさまざまな(ネオ)コロニアルな問題を、近年かしましいグローバル化の呼び声のなかにかき消されることなく、引き続いて考察するにはどのような視野が必要なのかを、最後に考えてみたい。なお本書で論考の資料として使う理論や運動は、おもにアメリカ合衆国のものである。わたし自身の専門がアメリカ文学であるという理由のほかに、フェミニズムを理論や実践の面から大きく可視化してきたのはアメリカ合衆国フェミニストたちであり、またそれが、グローバル化を含め、多くの問題を二律背反的に示してきたものでもあるからだ。