痛見心地

思ったこと感じたこと、おふざけ、メモ、たまに感傷的になったりと、ここは「しもうさ」の自由な文手箱です

71万5千時間の自由と孤独

 もう少しで四半世紀の時を生きたことになります。節目というやつです。節目を迎える時、人は各々思うことがあるでしょう。私の実感を書くと、かなり長生きしたなというのが正直な所です

 そもそも、人類は感覚が鈍麻してしまっていますが、四半世紀という時間は絶対的に長いのです。四半世紀、私の生まれた年から閏年も加算して弾き出すと、9,131日です。もう途方もない時の経過です。時間に置換すると219,144時間も経過したことになります。21万時間ですよ、頭がおかしくなりそうです。これをあと4倍するかしないかの間に殆どの人間は死にます。さて、1年は8,760時間です。現在の日本人の平均寿命は男性が81.64歳、女性は87.74歳。80歳、超えてたんですね…ちょっと掛け算してみましょう。計算結果の端数を切り捨てると、男性の場合、平均してこの世に生まれてから715,166時間の自由を与えられるそうです

 こういう書き方をすると「死んだら不自由なのか」というヤジが飛ばされそうですが、生きていたって不自由は付き物なので、これは単に好きな言葉を選んでいるだけです。「死んだら自由」とか言い出したらそれはもう哲学や宗教の領域の話なので、それはそれで尊重するとして、私ではない誰か他の適任者に任せることにします。71万時間の時の試練に耐えるなんて肉体は偉いです。この6桁を眺めると「良くやってるぞお前は」なんて褒めてやりたくなります。で…なにはともあれ、です。人間の殆どは、この6桁の制約の中で生命を終えます

 今回、私が話したかったのはこの死、いや、もっと先に進んで、私自身の死についての感性や態度についての、ナイーブな話です。以前の私は死に対して結構、怯えていました。今も、たまに考え込んで叫びたくなる時がないでもないですが、まあ、稀です。季節に一度あるかないか、程度にまで落ち着いています。これは人並みです。みんながみんな大小の叫びを抱えていて、死というテーマからは逃れられないんです。だから人並み。至って普通なんです

 ですが四半世紀の節目を控え、決定的な出来事があるわけでもなく、じわりと潮目が変わったようです。例えば寝る前、ふと誰かの死を想像してみます。すると気付くんです、かつてとは違い、他人の死によって大きな変化を与えられることはないだろうという自分に。人間的な感情を失ったわけではないです。私は今も昔も変わらず情緒的な人間です。むしろ涙もろくなりました。機能低下の心配もご無用。大事な人が亡くなれば、多くの人と同じように、当然のようによく泣いて、よく生前の思い出に浸ることだと思います。ピンピンしてますよ。ですが、「誰かの死」という出来事は、私の人格や生き方には何一つとして影響することはないでしょう。これが絶対だということが、身体で分かるんです。それで、というかそれが、何となく切ないんです

 不謹慎な言い方ですが、人間にとって最も過激な出来事である「死」に、ドラマ性がないんです。震撼を与えないんです。「事件」じゃないんです。ゲームで言うところのフラグが立たないんです。新たなルートに分岐しないんです。それは私の中に何も新しいものを呼び込む可能性を与えることはないんです。そのことに対する、ぬるい絶望感があります。深い絶望、じゃないです。「ぬるい絶望感」、です。多分、これが孤独というのでしょう。あるいはその始まりなんでしょう。同様の症状に陥った方には、私の使った「事件」や「ドラマ性」が、刑事手続とは全く関わりのない言葉だということだけは誤解なく把握して貰えると思います

 私はこれが、大人になったということなんだと思います。だから、このやるせなさを受け入れます。死がまだ「パターン」として登録されていない時、その衝撃は彼や彼女を未知の世界へと連れていく、案内人にもなってくれたでしょう。思えばそれは、年少者の役得だったのかもしれません。まあ、今では真偽のどちらにも値打ちはありません。全ては過ぎ去りました。とにかく、この寂しさと共に生きるというのが、大人として生きる上での条件だということを、私は私自身の心に諭されたんですね。こんなものは精神訓話でも何でもなく、ありふれた生の事実です。失ったもの一つ一つに対して個別的言辞を捧げるほど、現代人は暇ではありません。土俵を相手に相撲は取れない以上、誰もがその大地を踏みしめてゆく他ないんです。では何故、私は、こんなにも言葉を尽くそうと、努力をしているのか。胸の空虚が埋まらないんですね。精神的底無し井戸に、反響を期待しては言葉を投げ入れているんです

 私にもっと高度な日本語運用能力があれば、より解剖学的に、より論理的・構造的にテーマについて語ることが許されたはずですが、まあ私が平均通り生きると仮定すれば…あと50万時間ありますし、この問題については長い目で見て、なんらかの決着を付ける心算です。答えが出るかは神のみぞ知る

 まとまらない話ばかりが積もる、難儀な脳みそを全身で支えて生きてます