痛見心地

思ったこと感じたこと、おふざけ、メモ、たまに感傷的になったりと、ここは「しもうさ」の自由な文手箱です

メモ:市村弘正『増補 小さなものの諸形態 精神史覚え書』

初版2004年。平凡社から刊行された一冊

誰も言及をしないようなもの、路傍の石ころのような問題を拾い上げ、それを群にまで高め、ある種の無限、ないしは宇宙を見るような密度の濃い文章が私は好きで、市村氏のものはその良い見本になっているのではないかと思います

個人的ベストを以下に引用します

 

「文化崩壊の経験」から

pp.25-26

 バルトークの透明度の高い感受性と一徹な認識の力は、すべてのものの「本来属する場所」の有り様に向けられた。そのことを考えるうえで、本来の場所すなわち「故里」について、亡命者ジャン・アメリーが与えた規定は示唆的である(『罪と罰の彼岸』)。すなわち、故里とは「知ることが認識を促し、認識したものからすみやかに信頼へと導かれる」場所であり、そして「感覚によって成り立っている現実」と結び合う世界である。私たちが自らの生きる現実を、設計図や統計表や数値によって認知し確かめるのではないかぎり(アメリーとともに、私たちは「まだそこまでには至っていない、まだそうではない」と言えるだろうか)、私たちは「見たり、聞いたり、触れたりして世界を知る」のである。諸感覚にもとづく認識をたえず生成し、またそれによって結ばれ確かめられる世界。バルトークにとっても、それが「本来の場所」であった。すなわち、感覚によって成り立つこのような現実に対するこだわりは「知的な作業へと誘なう、つまり回想とよばれるものである。」まさしく、バルトークにおいて「切断された根」が促す内省の運動は、「回想」という精神的作業を導き出すのである。

 

pp.37-38

 晩年のバルトークが身を置いた文化の崩壊とは、一方で、物事の「持続性」を稀薄にし劉奪し、その無意味化を加速するような新たな文化形態の蔓延と、他方、この地上に「地獄」を次々と作り出し、その全体化を常態とするような「文化果てた後[原文ルビ。ポスト・カルチャー]」(G・スタイナー)の状態とのあいだに挟み撃ちされ、宙吊りにされたということであった。そして少なくとも、「文化」のこの二つの状態は、それぞれ消費による忘却と破壊による抹殺を通じて、物事を「記憶する」という人間活動に敵対的である一点においては共通していた。

 これに対して、そのいずれにも組みこまれることを拒否し、見たり聴いたり触ったり嘆いだりすることによって成り立つ世界、そのような事物をめぐる共感覚的な世界を精一杯持ちつづけること、その世界を回想作業を通してたえず現前させることが、かれがその状態に耐えて生きることであった。文化崩壊にさらされた一身を賭して、それを不在の経験として受けとめたと言ってもよい。すなわち、不在というもう一つの存在の仕方における文化の行方こそが、残された可能性の場所であった。そうであるとすれば、バルトークの「回想」とは、ベンヤミン=アドルノ的回想についての評言を借りれば、「追憶(Gedacht-nis)というもののもつ、つまり想起する主観につねに先立つ客観についての敬度な回想というもののもつ救済の力」(マーチィン。ジェイ)を信じるものであったといえる。かれにとって回想は、ばらばらに失われたものを再統合する(re-member)ためではなく、むしろ、それを失わしめた世界の構成員であることから救出するために、その記憶を異物のごとく堅持する生き方なのであった。そして、このように深い動機づけによって支えられることがなければ、「記憶」は生きた精神活動たりえないであろう。

 

pp.51-52

(……)言語学者田中克彦は「大きな言語・小さな言語」と題する刺戟的な論考を、このような興味深いエピソード[モンゴル人の文部大臣からゴーリキーに宛ててモンゴルの近代化の為にどのような文芸作品を取り入れたらよいのか訊ねる手紙が送られたという話]から始めている。この挿話が教えるのは、それぞれの言語にとって「文学」は、けっして普遍的な概念ではなく、また内発的に形成される概念でもないということであった。それは小さな言語社会にとって、「輸入」されるべき先進的な外国語製品なのであった。あるいは、その製品規格に合致する言語作品が「文学」と呼ばれうるのである。

 このエピソードはもう一つ、文学が近代国家を支える基礎的条件を形づくることをも示している。すなわち近代化は、大きな言語にもとづく文学に参与できるかどうかに係っているのである。あるいは、そのような「文学」をもつ「民族」たりうるか否かに係っているのである。こうして、それぞれの言語が「文学」を名のる言語作品のもとに、平準化され統合されていくとき、狭い地域に密着する小さな言語は苦境を強いられざるをえないだろう。ここでは、小さな言語が小さいままに生きつづけることは難しいのだ。

 

p.54

 小さな言語による小さな文学が、老人と子供たちが織りなす語りの場と親和性をもつのはおそらく偶然ではないだろう。少なくとも近代以降の社会生活において、老人と子供の暮らしのリズムは少数派なのである。数の上でどれほど多かろうと、統一規格からはずれるかれらの生活感覚はマイノリティのものである。そうして、その少数者のあいだの語りの形式は、「声」によって生成する小さな言葉の領土を共有する。そこでは音声が大切にされ、擬態語や擬声語が意味本位の言葉と肩を並べ、ときに凌駕しているだろう。それは感情の深さをこそ伝えるだろう。意味(センス)の包囲網をすりぬける子供のノンセンスの音声が、そして言語の流通速度を変形する老人のゆるやかな語り口が、小さな言語の潜在的な同盟相手であるのかもしれない。切れ切れの声を発しながら遍在する少数派、というイメージが私の内で像を結ぶ。

 

「在日三世のカフカ」から

p.116

 カフカユダヤ人であることによって「生身の人間」であろうとしたのではなかった。むしろ、自分がユダヤ人としての条件に欠けること、かれには決定的と思われたその欠損を考えぬき生きぬくことを通じて、生身の人間であるほかない自己を受けとったように思える。虫になってしまったセールスマンや、横たわりつづけるだけの断食芸人や、地形をもたない測量師など、何もしない(できない)ことにおいて際立つものたちは、それぞれに抜きがたい欠損を抱えこんでいるだろう。それらは、身動きの自由な空間への欲求を表わすというよりも、その身動きの困難ないし不可能な状態こそが、自分たちに与えられた「可能性」の条件そのものであることを示しているようにみえる。

 

※孫引き

p.128

我々は、いまだかつてないことだが、自分自身のモラルだけを頼りに違う人々と生きてゆかなければならなくなった。我々の個を包含する共同体はもはや個々のモラルを超越するものを持たないのだから。パラドックスを背負った社会が形成されつつある。外人だけからなっていて、各人が互いに自分を、また他人を外人と認めれば認めるほど、自分とも他人とも仲良くやってゆけるという社会。個人主義を限界までおし進めた結果としての多国籍社会。その個人主義にあるものは自分の不安と自分の限界に対する自覚、わかっているのはただ自分の弱さこそ自分を助けるものであるということ。

(ジュリア・クリステヴァ『外国人』)

 

「家族という場所」から

pp.167-169

 家族とは時間的な存在である。人が祖父母—父母—子—孫という名前の体系のなかを生きるというとき、それはまた、言葉の贈与関係を生きていくということであった。私たちは家族あるいはそれに類似する母胎から言葉を受けとる。家族の機能がいかに切り縮められ、どれほど変質しようと、生をうけた子供にとって言葉を受けとる場はさしあたり他にはない。そして、言葉を手渡しつづける伝承体であることによって、家族は固有の時系列を受け伝える。一個人が見渡すことのできる時間の幅は、ほぼ祖父母から孫におよぶ範囲であり、それは言葉が受け渡しされる幅でもある。

 しかし同時に、祖父母の言葉はそれ以前の時から贈られた言葉、つまり死者たちの言葉であり、また孫の言葉は、祖父母や父母にとっては自分たちが死去した後の時間を生きていく言葉でもある。すなわち、家族のなかの言葉は、未生以前の時間と死後の時間とを包みこんでいる。したがって、一人の子供の誕生は家族を貫く時間を始動させる。動きだした時間は、成員の地位や役割の移動と変換、つまり親や祖父母に「なる」ことを通じて、それぞれを集団的時間のなかを生きていく(死んでいく)存在とするのである。

 そして、家族に固有の時系列を生きていくことは、それぞれの身体の成長と衰弱とともにあるものであった。痛風で苦しむ足やひび割れて痛む手とともにあるものであった。この時間過程における身体的な盛衰を、いわば平等に映し出し、変換する装置として名前の体系が作動する必要がある。たとえば、身体の衰えがみえる者には、それに相応しい「位置」が必要なのである。このような位置の移行と役割の変更とにおいて「平等性」が考えられよう。そのとき社会的カテゴリーの受容は、家族構成員の身体的な時間感覚を、文字通り身辺からの社会意識と歴史意識とをかたちづくる母胎とするだろう。

 そのことは、家族成員における親密さと情緒性の意味転換をも促す。社会的諸関係から隔離されたところに成り立つ接触の全面性とは、おそらくは錯覚である。少なくともそれは、日常的な接触経験を単純で未分化なものとするだろう。成員それぞれの年齢や世代がもつ差異についての「認識」や、それぞれの肉体の老化や衰弱についての「観察」、それにともなう地位の変換に対する「解釈」などをもたらす日常的身体的接触は、役割の解消に傾く情緒的関係や親密性の塊のなかから切りわけることは難しい。このかぎりで、全面的関係における事態の複雑さとその認識は、役割の追放ではなくその受容において、地位の消滅ではなくそれぞれのカテゴリカルな位置において、むしろ可能となるのである。

 

pp.190-191

 かつて或る批評家は、二十世紀の真に検討に値する思想はすべて、故郷喪失という主題をその出立点としている、と指摘したことがある。この時代において何事かを考えようとするとき、それが都市化され流民化された事態のなかに置かれていることを知らなければなるまい。つまり、都市を生きるとはどのような生のかたちを身に帯びることなのか、という問いが再び三たび立てられねばならないのだ。すなわち、文明 = 地獄は過去の経験となり果てたのか。生物学的な基礎に立ち戻る社会認識は研究者にのみ意味のある作業にすぎないのか。都市文明がはらむ破壊性は局地的な現象として始末がついたのか。

 社会生活から共同性の被膜を剃ぎとってゆく大都市の破壊力は、私たちの生存の形態をどのようなものとしているのか。或る作家は、貧民の都市経験それ自体の認識に立ち戻ることによって、この問いを立てなおした。すなわち、大都市の制御不能の成長がすべてを破壊していくとすれば、貧民の共同性を改めて問うことが不可避となるのではないか、と。