痛見心地

思ったこと感じたこと、おふざけ、メモ、たまに感傷的になったりと、ここは「しもうさ」の自由な文手箱です

近況

一月末から休職をしている。

いま思えば年末から既に様子はおかしかった。体調不良と仮病を連発させた結果、十日以上もあった有給はすべて使い果たしており、そのあとには欠勤を何度か繰り返した。なので上司からも危ぶまれてはいた。よく「仕事中の感情の起伏が激しい」と指摘されていた。信じられない失敗を繰り返して、日に日に挙動不審になり、電話ひとつする時もわざわざ会議室に逃げ込んだ。つまりは時間の問題だった。

最後の朝、始業時間になっても布団に潜りつづけて二十分以上が過ぎたことを確認したとき、自分がとっくに擦り切れていることを認めた。上司に電話をした。それから眠り、昼過ぎに起きて勢いで産業医と面談を行い、産業医というものが全くのお飾りにすぎないことを学んだのち、そのまま予約をとってメンタルクリニックへ行った。

適応障害うつ状態の診断がくだるだろうと予想していると、診断書にはうつ病と書いてあったので、「ほう」と思った。妻に伝えると案の定という反応で、それをもって特別な親切をしたり責め立てることもなく、ポンコツになりました。とりあえず休みます。という報告を、はい。と受理してもらった。

互いに、この一連の流れにはさほど驚くこともなかった。じつのところ、ある程度は予想通りだった。新卒のときにも、年が明けてすぐに限界を迎えた。年始から二か月をまるまる実家で休んでいた。妻と付き合ったのはその直前のことだったので、「またか」というわかりきったきぶんがあった。この人間としての進歩のなさは一種の愛嬌ともいえるけど、その時は自分の受け持っている仕事をどうするか、酷く気を揉んだ。憂鬱がギプスのように硬く全身を固定して、身動きも取れずに延々と落下をしていくような絶望感があった。

結論としては、自分にしかできない仕事なんてものは無かった。ある日だれかが忽然と姿を消しても、物事はなんとかなる。これだけは絶対自分がいないと回らないという考えは、中程度から重度のうつ状態が陥らせる錯覚に過ぎない。それは責任感の発動ではなく、思考能力の低下のあらわれだということは、時間を置いて必要な休みを取ることで自然と認められるようになる。悲しいことだがこの事実を改めて教えられた。思い上がりを諭される気分でみじめでもあったが、すべてを投げ出すと気楽だった。

休職届はいまのところ二月末まで出している。ただ担当医が休みを延長する診断書を出したので、もうひと月延長する見込みだ。同じ失敗を二度も繰り返してようやく、自分を当てこんでいた「社会」とのクラッチの切り方をおぼえた。下手くそで出来なかった。強がるわけじゃないけど、これはことのほか大きな収穫だった。毎日がゆっくりと過ぎていく。

 

今日カリンバを買った。十七個の鍵がある楽器で、指で弾くと綺麗な音が出る。家から徒歩圏内にある楽器屋に行って、五千円で買った。一個しか置いて無かったが、一個しか無いので即決だった。まさか置いてあるとは思ってなかったし、店員もこんなの買うやついるんだという顔をしていた。一時間半かけて、きらきらぼしと大きな栗の木のしたでを弾けるようになった。一曲何かを演奏しきるという体験は小学生の時にリコーダーを吹かされて以来で、とても大きな達成感があった。自分の感性の小学生の部分が十数年ぶりに起動した。それが嬉しかった。

転職活動がうまくいかなくても、いまの仕事は辞めると思う。そういえば自分ってこんな感じだったな、という感覚を日々すこしずつ思い返している。

忘年会の所感

幹事というものを初めて執り行ったので経験として良かったと思う。といっても店を予約して経費処理をして、アナウンスと現地への案内と配置決めと挨拶と店員コールと事後の御礼と…なんか色々やったな。進んでやりたいものではない

「私は毎年自分に対してモンクレールを買うことにしている」と言う女性がいて、その個人的な信念を密かに畏敬すると共に、モンクレールというラグジュアリーファッションブランドのことが最初よくわからず、モンテローザと混同してしまっていた。世間知の無さを実感する

忘年会を経て一人オフィスに戻ると炎上プロジェクトの只中にいる上司が絶賛火消し中であり、「歓楽の時間も終わり、馴染みの世界に戻ってきたな」と感じた(それは声に出すと「ああ」といったような感じでもあった)。その姿を見てどこかほっとしたのは、黙っておく。ほの暗い世界の答え合わせ

参加:「日仏会館主催オンライン美術講演会 エドゥアール・マネの絵画」

下記イベントに参加しました
「日仏会館主催オンライン美術講演会 エドゥアール・マネの絵画」(講師 三浦篤) 2020/6/19開催

 

・マネ(1832-1883)第二帝政期を主要な活動期とし、第三帝政期が活動の後半期。マネは生涯にわたって数百点の作品を描いている。
・マネはブルジョワジーの家庭の息子。妻はシュザンヌ・マネ。レオン=コエラ・レーンホフは戸籍上は結婚前に出来てしまった子供で、年の離れた弟ということで世間には通していた。
・歴史画家であるトマ・クチュールに6年間師事。しかし、アカデミックな絵画には反発。
・当時のパリは、区画整理や大規模な整備によって生まれ変わろうとしていた(ナポレオン三世の主導によって、文化都市、近代都市として完成しつつあった)。
・パリの中心地からはなれた北西に、マネの活動の拠点が離れていく。クリシー広場の付近。マネはきらびやかな表面も、「小ポーランド」と呼ばれた貧民街に代表される裏側も知っていた。
マラルメ、ゾラ、ボードレールたちに支えれれ、マネはサロンに応募する。最初の作品は落選(1859)。実質的なサロンデビューは1861年の入選となる。63年の落選はナポレオン三世の意向で「落選者選」に出展される。64年の落選作品は評価が悪く、自分自身で切断(!)。
・64年は『死せるキリストと天使たち』という宗教的な死と『闘牛士の死』という世俗の死を対置的な主題として出展している。
・『オランピア』は、65年の入選。『兵士たちに侮辱されるイエス』という作品も同時に入選したことは重要。こちらも対になるように出展されたのではないか。『オランピア』『草上の昼食』は同じ63年に描かれている。
→①二つのヌード。女性と男性。②ティツィアーノカール大帝に宗教画とヌードを組み合わせて献呈したという逸話があり、それを踏まえたと考えられる。『オランピア』は伝統的な理想化されたヌードに対する挑戦。滑らかさのない肌。同時代のアカデミズム画家カバネルの『ヴィーナスの誕生』(1863)のものとは真逆で、かつそれがまた現実の娼婦を題材にしたものでもあるとされる、スキャンダラスな作品。
・65年夏に気分転換にスペイン旅行をし、ベラスケスの作品を見て、自分の作品と同質のものを読み取り、ますますベラスケスへの好感を示すようになる。『笛吹き』『悲劇俳優』は、その表れ。しかし二点とも落選(前年の影響か)。
・66年。『ゾラの肖像』『1866年の若い婦人「女とおうむ」』単独の人物像は同じ。しかし、非常に背景が豊かになっている。浮世絵やベラスケスの絵、自作品である『オランピア』の画中画が認められる。意味ありげなディテールを散りばめている。入選。
・マネはパリ・コミューンに共感を示していた。
・69年。二点の作品が入選。単独の人物像は単純なものも複雑なものも描いてしまったので、複数人の絵を描こうとしたのではないかと推察される。『アトリエの昼食』『バルコニー』。視線が交わらない、冷ややかな作品。物語性や寓意性、人間関係が希薄なのがマネの作品。それが色濃く表れている。人物が何をしているのか、どのような状況なのか、いまいちはっきりしない。
・70年。第二帝政期の最後のサロン出展。『エヴァ・ゴンザレスの肖像』『音楽のレッスン』絵画のレッスンと音楽のレッスンを対置したのか。エヴァはマネの唯一の弟子。入選。
第三共和政に入る。72年にも入選。普仏戦争パリ・コミューンの後の混乱をフランスが脱し切れていない時代。『「キアサージ号」と「アラバマ号」の戦い』。当時のカリカチュリストたちがサロン戯画を新聞に載せて、この作品を揶揄した。非西洋的、非慣習的な配置は歌川広重の『六十余州…』からの影響ではないか。マネのジャポニズム的傾向はマラルメも指摘している。
・73年。『休息』(70)、『ル・ボン・ボック』(73)。後者は絶賛される。マネが最も評価された作品。フランス・ハルス『陽気な酒飲み』(1628-30年頃)等を参考にしたのではないかと推察される。
・『鉄道』『ポリシネル』(入選)、『燕』『オペラ座の仮面舞踏会』(落選)。このあたりから、印象派に近づく。
・75年。この年は『アルジャントゥイユ』(74)が入選。しかし、『オランピア』と同じくらいの非難を受ける。何の変哲もない作品に見えるが、最も批判されたのはセーヌ川の描かれ方。壁のように平面的に塗られたことが批判の理由になった。新聞にカリカチュアが掲載されるほど揶揄される。浮世絵版画の影響があるのではないか、と三浦氏は指摘する。70年代半ばに色彩やタッチの面でマネは印象派に近づいた節があるが、印象派のアルジャントゥイユの描き方は全く違う。マネの陰気な冷徹なレアリスムとは対照的。セーヌ川河畔のレジャーでもあり、パリ近郊の産業都市でもあると、一枚の画面にアルジャントゥイユのすべてを集約している。これは、様々な断片的なビジョンを提示する印象派とは異なる特徴。
・76年。『洗濯物』75『芸術家』75、ボヘミアンタイプの芸術家と母と子という、全く異なるものを対置。
・77年。『ナナ』、『ハムレット役のフォール』。前者は高級娼婦を描いたような作品。小説の『ナナ』は80年出版。77年1月に出た『居酒屋』の最後にナナという少女が出て来る。そこから着想したのか。こちらは落選。後者は入選。
・79年。『舟遊び』『冬の庭にて』都会の男女のカップルの微妙な関係を積極的に描くことを始める。『ラトゥイユ親父の店』も。
・80年。『アントナン・プルーストの肖像』前者はマネの友人。マネを常に支えてくれた、恩義のある人間。
・81年。『ペルトュイゼの肖像』、『アンリ・ロシュフォールの肖像』。後者は、共和派の左翼系のジャーナリスト。男性像二点。
・82年。『フォリー=ベルジェールのバー』。
→描かれる女性は実際の劇場のバーのメイド。それまでのパリの現代生活、特に女性を描いてきたマネの結論ともいえる傑作。マネはアトリエにモデルを呼び描いた。鏡がずれていることが指摘される。空間表現が歪んでいることは意図されたもの。パラレルな存在を描いたのではないか。孤独に屹立してメランコリックな眼差しを前に向ける女性。華やかな世界ではあるが下級の女性が勤める世界を描いたもの。ベラスケス『ラス・メニーナス』(1656)を意識していたのではないか、と三浦氏は推察する。ベラスケスの集大成的な傑作をマネは別のレベルで描いたのではないか。ベラスケスの伝統的な絵画が終わりを迎え、マネに代表される近代絵画が始まりを迎えようとしているのに向けて、絵画史的に大きく繋がるような作品をマネが書こうとしたのではないかという事が考えられる。
・マネは四季の作品を構想していたと思われるが、あくまでも萌芽の段階で死んでしまった。
・『老音楽師』『皇帝マクシミリアンの処刑』(68-69)も重要。
・マネは19世紀パリの現代生活を主題として、自分自身の課題やテーマを提示していった画家。印象派との違いは、一枚のタブローに集約する、ある意味で伝統的な手法を最後まで捨てなかったこと、もう一つは卑俗なパリの同時代の様子を古典を参照しながら典型化していく(普遍化とは異なる)。その結果、どこかずれがある、という印象を我々は抱く。マネは、自由にイメージを操作していった。描く自由をとても感じさせる。思考や感覚を刺激する。近代絵画の先駆け。

【質疑応答】
・古典を参照することは他の画家もやっているが、マネは文脈を無視してダイレクトに引用してくる。コラージュの頻度が高い。自由さ、無頓着さが大きく異なる点。
・伝統を吸収しながら新しいイメージを作り出す手法を確立したのがマネの革命的な業績。
・古典画家において、風俗画はマイナージャンル。歴史画が最高のステータスを占めている。自然と感情移入できるような絵を「結果的に」作らなかった。マネの興味の問題。形態や、造詣への興味が意図せず生んだ特徴なのではないか。(物語性等の希薄さ)
・造形要素の自律性がマネにとって絵を描くうえでの魅力的なものであり、それが後世から見た時にフォーマリズムの起源に見えるといった方が適切。
・自分の絵がある「あたらしさ」(革新的要素)を持っていたことに自覚的であったことには違いないが、絵画史における革命というレベルでは見通せていなかったのではないか。デュシャンとは大きく異なる点。
・主な批評メディアは新聞や雑誌の批評文(テクスト)。当然、カリカチュアもあるが。
・レアリスムから印象派に続く革新的な画家はマネのような主題を選んだ。
・複製図版や版画と言う複製技術がマネのイメージ操作の自由度を上げたことは間違いない。
・マネの時代にはまだまだ官学のアカデミックな画家が大半を占めていた。
第二帝政ナポレオン三世)には反体制的な態度を持っていたことが分かる。
・官展(サロン)と言う国家主催の展覧会があり、毎年必ずマネは応募していた。落選することもある忌憚のない毀誉褒貶の応酬の場。
・1882年には無審査の特権を得て、フォリー=ベルジェ―ルのバーはそれで入選。翌年死去
・最初の作品は、「クズ屋」という同時代的な対象を主題にして描く。
→古典を参考にしつつ、現代の風俗や人物を描いた点にマネの独創がある。
1860年の時点では、フランスではスペイン趣味が流行していた。それに乗っかった堅実な作品を出し、夫妻の絵と共に入選。
・西洋絵画の根幹であるヌードに挑む。しかし理想化された裸婦ではなく、「現実の中の裸婦をどう描くか」という点にマネは腐心した。古典的なイタリア絵画から触発され、『草上の昼食』を描く。ジョルジョーネ、ティツィアーノ以外にも、ヨーロッパの様々な絵画流派を意識しながら、絵を描いていた。
・展覧会に出品する時はスペイン趣味の闘牛士の作品の真ん中に『草上の昼食』を配置しており、三面画のような伝統的な形式も踏まえていたのではないかということが推察される。
・マネの絵画は、『草上の昼食』、『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』、『オランピア』、『フォリー=ベルジェールのバー』、『笛吹き』、等が代表作として認識されている。

メモ:竹村和子『フェミニズム』

初版2000年。岩波書店から刊行

 

この本の「はじめに」を定期的に読み返したくなるので、自分用にメモします。まあ全てのメモは自分用なのですが。なお、原文では読点はカンマ、句点はピリオドでしたが、読み易さのため馴染みのある方に改めました

 

この「はじめに」をなぜ定期的に読み返したくなるかと言うと「自らの立場に対して批判的であるとはどういう事か」つまり知性とは何かを教えてくれる第一等の名文でもあるからです

 

はじめに——いまフェミニズムを書くことについて

結局、問題はあるのだろうか。もしも問題があるとすれば、それはどのようなものなのか。本当に、女というものがいるのだろうか。

シモーヌ・ド・ボーヴォワール

フェミニズムについてまとまったものを書くということを聞いた知人たちから、「フェミニズムに戻るのか」とか、「フェミニズムについてあなたはいったい何を書くのか」と、ときどき尋ねられる。こういった発言の裏には、セクシュアリティについて語ることとフェミニズムについて語ることはべつの問題である、あるいはセクシュアリティ研究が出現した今となっては、フェミニズムは古い批評の枠組みだ、という考え方があるように思われる。同じことが、ジェンダー研究とフェミニズムの関係、カルチュラル・スタディーズフェミニズムの関係にも当てはまる。けれども他方で、ジェンダーセクシュアリティという用語が意味している内容も、漠然とは推測されても、どこか腑に落ちないと思っている人々も多いのではないだろうか。そのような人々にとって——ましてやフェミニズムは一過性の流行、あるいは多くの差異化軸のひとつで、それに興味をもつ人だけが論じる局所的な、あまりにも感情移入された主義や主張であると思っている人々にとって——ジェンダーセクシュアリティは、フェミニズムよりもさらに胡散臭い概念で、それらとフェミニズムの関係など、どちらでもよい問題なのかもしれない。

セクシュアリティは、社会的・学問的な文脈で最近語られるようになってきた比較的新しい言葉である。セクシュアリティとはいったい何なのか。あるいはそれとの関連でふたたび呼び起こされている——あるいは新しく意味づけなおされているジェンダーとは何なのか。それよりもそもそも、フェミニズムとはいったい何なのか。フェミニズムという言葉は、本当にいまも、そしてこれからも、有効な用語でありつづけるのか。結論を先取りして言えば、わたし自身はフェミニズムという語彙は、性の抑圧的な関係機構を批判的に読み解こうとする理論的な企てにとっても、また現在の性抑圧の形態を解体していこうとする実践的な企てにとっても——厳密に言って——瑕疵のない最適な用語というわけではないと思っている。フェミニズムは英語から入ってきた外来語だが、『オックスフォード英語辞典』(第2版)によれば、ここで言うフェミニズムの意味は、「(両性の平等という理論にもとづいた)女の権利の主張」と定義されている。この定義にしたがえば、次の二つのことが前提とされる。一つは、少なくともフェミニズムが存在している社会においては、女の権利は奪われており、ひるがえって男の権利は守られていること(そう認識されていること)、もう一つは、性的に抑圧されている者(「女」と呼ばれている者)は、「女」という立場を維持したまま、その十全な権利を主張していくということである。これらの前提から類推される事柄は、社会の成員は「男」と「女」に二分され、この二つの性のあいだの力学に不均衡が生じていて、フェミニズムは、権利を奪われている女が、権利を過剰に付与されている男に対して異議申し立てをするものだという図式である。フェミニズムを語る者は、たいていの場合女ということになり、その女たちは男を「敵」と見て、男の特権に挑戦すると思われている。だからフェミニズムに直面した男は、ときに女の舌鋒に驚き、怯み、あるときは女の挑戦を、風車に挑むドン・キホーテのように的はずれなものと見なしてやりすごす。社会が——少なくとも日本の社会が——フェミニズムに対して抱いているイメージは、個別的な例はべつにしても、現在のところは大なり小なりこのようなものだろう。そのような社会の受け止め方のなかでは、たとえ男が、この性の不均衡はもしかしたら自分自身を呪縛しているのではないか、自分を「男」にしている特権が逆に自分を苛んでいるのではないかと感じはじめても、その男は、フェミニズムという枠組みのなかで思考することには居心地の悪さを感じ、「男性学」や「ジェンダー研究」という枠組みが自分にとっては適切なものだと思いがちになる。あるいは「女」と一括りにくくられても、いわゆる「女」を愛の対象にしている者は——「男」同士のあいだでも同じことだが——「女の権利の主張」に自分を当てはめることが、はたして適切なのかどうか疑問を覚えてくる。むしろ性的な意味づけを攪乱する「セクシュアリティ研究」の方が、自分が被る抑圧をもっと厳密に取り上げているのではないかと考える。あるいは同じ「女」でも、国籍や民族や職業や地域性などによって立場や条件がずいぶん異なることを痛感している人々は、「女の権利の主張」だけではもはや間尺に合わないと思い定めて、それよりも多角的で複眼的な視野をもつと思われる「カルチュラル・スタディーズ」に活路を見いだすかもしれない。

フェミニズムという言葉が「フェミナ」(女)という語を母体に作られた造語であるかぎり、このような反応は避けられないことである。しかしこれは語源的な問題というだけではなく、「女」に対する圧倒的な抑圧に対抗してきたフェミニズムの理論や実践が、その歴史的な経緯のなかで必然的に伴わざるをえない限界である。このように、性の抑圧に対する個別的また包括的な批評理論や政治実践において、フェミニズムという語を使用することはかならずしも最適な選択ではないことを承知しながらも、それでもなおわたしは、少なくとも現在では、フェミニズムという言葉を手放したくはない。その理由は、けっしてフェミニズムを「女の権利の主張」という枠に閉じこめて、「女」を理論の基盤、あるいは解放されるべき主体として、保持したいと願っているためではない。わたしがフェミニズムという用語のもとにしばらくは思考を進めようと思っている理由は、「女」であることはたやすく身体的な次元に回収され、そして身体は還元不可能な与件だと理解されているので、もっとも根源的な本質的属性とされている「女」というカテゴリーを根本的に解体することなく、「男」に対する抑圧も、「非異性愛者」に対する抑圧も、また性に関連して稼動している国籍や民族や職業や地域性などの抑圧も、説明できないのではないかと危惧しているからである。したがってわたしは、フェミニズムはけっして恒常的で永遠に機能する批評枠ではないと、一方で理解している。たしかに性にまつわるさまざまな抑圧が、「男」と「女」の意味づけをめぐって——とくに「女」の意味づけをめぐって。なぜなら、普遍と同義とみなされている「男」は定義される必要がないから——いまだに展開しているかぎり、「女」の意味を徹底的に解析することは不可欠の要件ではある。だがもしもその結果、「女」という概念が社会的にも言語的にも有効でなくなるときがくれば、そのときフェミニズムは、その使命を終える。さきほどフェミニズムは「フェミナ」(女)という語の派生語だと述べたが、もっと正確に言えば、フェミニズムは、女(フェミナ)という概念を自然化せずに前景化して、思考の俎上にのせる(イズム)ということである。フェミニズムは「女」というもっとも身体化されている存在、本質化されている存在を切り開いて、それを歴史化すること、つまりそれをとりまく社会関係の糸をたどり、「女」というカテゴリーのみならず、それと相補的な関係にある「男」というカテゴリーを解体し、そして女と男という「異なった二つの性」を必須のものとしている異性愛主義の怪桔——「非異性愛者」だけではなく、いわゆる「異性愛者」をも呪縛している桎梏——を明らかにすること、またひいては、「女」のアナロジーを利用して戦略的に説明されてきた他のさまざまな抑圧形態から、そのアナロジーを奪い去ることである。したがってわたしが念頭に置いているフェミニズムは、女に対して行使されてきた抑圧の暴力から女を解放することを意図しながら、同時に、そのような「女の解放」という姿勢自体を問題化していくこと、つまり「女」という根拠を無効にしていくこと——まさにフェミニズムを、現在女と位置づけられている者以外に開いていくこと——である。言わば、フェミニズムという言葉を手放さずにおくことによって、フェミニズムという批評枠を必要としなくなるときを夢想することである。この企ては途方もない離れ業で、うまく行くかどうか心もとないけれども、このような視点こそが、今の時代によって要請されているフェミニズムだと信じて、本書を書きすすめたい。

このような枠組みで思考していく場合には、女や男や異性愛者や非異性愛者という言葉には、つねに、〈いわゆる〉という意味の「 」(括弧)が付けられるべきだろう。しかし煩瑣になることを恐れて、その構築性や虚構性をとくに指摘する場合を除いて、本書では括弧をつけずに使用する。

本書の第Ⅰ部では「どこから来て、そしてどこまで来たのか」というタイトルのもとに、フェミニズムを思想と運動の両面から歴史的に考察して、どのような問題系が浮かび上がってくるかを論じたい。したがって第I部は、これまでのフェミニズムの概括であると同時に、わたし自身の視点と問題意識で切り取ったフェミニズムの歴史である。現在のフェミニズムの理論はあまりに「理論的」で、実践や運動から乖離しているという批判が、フェミニズムの内部からさえ起こっている。しかし理論の軌跡はつねに、過去の実践が経験してきた困難さやアポーリアに分け入り、またそのすぐそばまで来ながらも避けて通ってきた事柄に対峙して、わたしたちの生の荊棘を解きほぐそうと試みる現実的で内在的な願いの軌跡である。第Ⅰ部では、実践と理論、歴史と構造の相互連関性に目を向けたい。女性解放思想もふくめてフェミニズムの歴史を大きく概観すれば、フェミニズムは、法的・制度的な権利の要求から、社会的な慣習の再考へ、さらにはセクシュアリティや愛という心的・身体的な事柄の追求へと推移していった(ママ)言えるだろう。むろんこれらの考察対象は相互に関連しており、けっして直線的・段階的に移行してきたわけではない。その歴史的経緯をふまえつつ、第 II 部では「どこへ行くのか」と題して三章に分け、これとは逆の順番で、「身体」「慣習」「グローバル化」に焦点を絞り、各章で考察したいと思っている。その理由は、もっとも個人的なものと見なされている心的・身体的なものに関する認識や行為の変容をみずからに課すことなく、どのような社会的慣習や政治的制度の変革も、究極的にはありえないと考えているからであり、そのように一見して「個人的な」認識や行為の変容が、個人をとりまく——あるいは個人そのものである——社会の姿を変えていくと考えているからである。またさらには、わたしたちはもはや、参政権運動といった一国のなかで解決しうる政治の世界に生きてはいない。好むと好まざるとにかかわらず、わたしたちの政治の問題は、「地球」の問題でもある。性の制度とて、その例外ではない。そしてたしかにグローバル化はこの意味で現代の概念であり、とくに最近の経済的・政治的・文化的な距離の圧縮と変形によって推進されているものではある。しかし19世紀中葉にはじまった一国の参政権運動が、すぐに「国際女性協会」(1868年創設)や「国際女性評議会」(1888年創設)に向かっていったように、性の制度を国境を横断して考察する必要性は、現代だけの要件ではない。むしろフェミニズムがそれぞれの局面で直面してきたなおも直面しているさまざまな(ネオ)コロニアルな問題を、近年かしましいグローバル化の呼び声のなかにかき消されることなく、引き続いて考察するにはどのような視野が必要なのかを、最後に考えてみたい。なお本書で論考の資料として使う理論や運動は、おもにアメリカ合衆国のものである。わたし自身の専門がアメリカ文学であるという理由のほかに、フェミニズムを理論や実践の面から大きく可視化してきたのはアメリカ合衆国フェミニストたちであり、またそれが、グローバル化を含め、多くの問題を二律背反的に示してきたものでもあるからだ。

メモ:ベルサーニ/フィリップス『親密性』

レオ・ベルサーニ/アダム・フィリップス(檜垣立哉/宮澤由歌訳)『親密性』

初版2012年。洛北出版から刊行された一冊です

 

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http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27163.html

 

個人的ベストを引用したら1万字を超えました

 

pp.126-127

フロイトラカンによってもっとも深く例示される精神分析的観点からみれば、愛の理論は脱神秘化されざるをえない。だが、ありとあらゆるタイプの愛についての別の理論は、ひとつの前提を共有している。すなわち、愛において人間主体は、とりわけ他性に開かれるということである。特権的な対象は、わたしたちの欲望を固定する。その欲望は多くの形式をとりうるし、必ずしも対象の知識や、それへの尊重をそなえる必要はない。さまざまな愛のかたちの一方には、他者と自分との差異に浸透していき、他者と同一化しようとしたりしなかったりするもっぱら性的な情熱がある (幸福なものであれ不幸なものであれ)。他方には、非性愛的にすべてを消尽させる現象として、超越的で横暴な神の人知を超えた意志への服従により要求される無条件な自己剥奪があり、これは十七世紀の神秘主義者に記述された「純粋な愛」でもある。これらを両極において、すべての愛をみるならば、そのひとつの普遍的特徴は、自分と区別された (個人的・集団的・神的)対象への、情熱的で揺るぎない配慮 (要求されているか否か、また性愛的であるか否かにかかわらず)であるようにおもわれる。愛の概念のほとんどが、愛される対象との合一という発想を含むことからみれば、この区別は、愛する者と愛される者との永続的な分離を意味するものではない。二人の異なった存在は、個人的な愛の充足した幸福感のなかで溶けあってしまうと考えられるかもしれない。愛国者はよろこんで犠牲になる国家に「属する」のである。また、「純粋な愛」の実践者は、自らの主体が無化されてしまう神の意志へのみこまれることを渇望するのである。

pp.137-146
愛する者は、自分に似た恋人をえようとする。だがこれは、個人的なナルシシズムの鏡面性とは関係がない。彼は、愛する者の存在の類型にすでに属している少年を選ぶのである。そしてソクラテスによれば、愛する者は少年の魂に彼自身の神の「霊感」――それによってまず彼は少年を選んだのであるが――をさらに流しこむ。愛する者は、「(愛する少年を)自分に、ひいては自分の尊崇する神に、できるだけ完全に似た人間にしようと努力」しながら、同時に少年をより自分自身らしくしようと試みる。愛する者は、自分の普遍的な個人性のイメージをナルシスティックに愛するのであり、そのイメージを愛する少年のなかに与える。そのとき、彼は愛される者が現にそうである以上に、つまり彼らがすでに共有している存在の類型以上のものを与えるのである。ソクラテスにおける愛する者のナルシシズムは、他者ではなく、人格性の付帯的性質を抑圧するのである。そうして愛される者は、彼らがともに仕える神の姿のなかに、神話化された普遍的な単独性をいっそう的確に映しだすのである。こうしたきわだった愛の解剖学は、フーコーが賞賛し、ほかの人々もそう理解してきたような、ギリシア的な愛の異様さを導きだす。それはエロティックな相互依存なのである。愛される者は、愛されることの結果として愛する者になる。どのようにしてか。ソクラテスによれば、愛する者は、自分が天界でかいまみたもののイメージをみて「驚く」。それと同様に少年は、「愛する者が彼に提供する例外的な友情関係に驚く」。少年の美は、愛する者のうちにある欲望をふんだんに溢れさせ、「いっぱいに満たされると、その一部は外に流れでる」。「考えてみよ」。ソクラテスはこう述べる。「あたかも風やこだまが、滑らかで固いものにあたって跳ね返り、そこからふたたび、もと来たところへともどっていくように、この美の流れも、ふたたび美しい愛される者のもとにもどるのである」。それは眼を通過して、愛される者の魂へとはいっていく。「そこでそれは翼の通路をうるおし、翼が生えようとする衝動を与え、こんどは愛される者の魂を、恋でみたすことになる。こうして、少年は恋に落ちる――しかし彼は、自分が何を愛しているのかわからない」。あたかも彼は、自分では原因のわからない病いにかかったかのようである。ソクラテスは、こうした愛のナルシスティックな本性をはっきりと規定する。少年は、「あたかも鏡のなかに自分の姿をみるように、自分を愛する者のなかに、自分自身をみているのだということがわからない。そして、愛する者が彼を求めるように、彼も愛する者を求めるのである」。「というのも、彼は彼のなかに、鏡のイメージを探るのだから」(ギリシア語では、この愛の型はアンテロースという。それは「カウンターラブ」や「バックラブ」と訳されてきた)。愛される者は愛する者のなかの自分のイメージを愛する。それはもちろん、彼自身のひとつのヴァージョンであり、愛する者に、天界の美とその魂が浮遊しつつしたがっていた神とをおもいおこさせるからである。少年は、彼の現在の魂と、生成しつつある魂の両方を愛するのである。後者は、愛する者がすでに少年のなかにみていた本性をわかちもつ神の性質を、ますます彼に与えることの結果である。自我は、必ずしもすでに失われた何かでも、ほかの者に投影する何かでもない。過大評価された愛の対象でもないということを考慮からはずせば、フロイトの言葉に仮託してこういえるかもしれない。少年は愛する人のうちに自分の理想自我をみて、それを愛するのだと。ところがむしろ逆のことが生じている。この自我は、愛する者が彼のなかで愛しているものである。ある意味で、愛する者は少年のなかに、自分の理想自我をみいだす。少年を欲望することは、少年にとっても愛する者にとっても理想的な自己を、少年に与えつづけることである。愛する者の欲望は、彼の魂によく似た魂の、小さく未発達な翼をうるおしていく。そして、愛される者の理想的な本性をもった翼が成長するとき、愛する者は――神的な狂気にかりたてられ 「夢中になる。少年の姿が、いっそう少年それ自身に、いっそう愛する者自身に、そしてよりいっそう、彼らがともにしたがう神、すなわち彼らがともに属する存在の種類に似ることに夢中になるのである。ここで不思議なのは、この愛をナルシスティックなものとして記述するとき、これを純粋な対象愛であるといわなければならないことである。アダム・フィリップスは、「自分自身で欲望すること」と題された最近の論考で、つぎのような「臨床的命題」を提案する。「わたしたちの願いは、世界と関わりをもたないことである」。ジャック=アラン・ミレールの述べる 「外密性[extimacy]」の概念を検討しながら、フィリップスは、分析の試みを、主体の内部にあるとともに主体の「他者」の内部にある「欲求する源泉」によって「所有されることに耐える」のを学ぶことであると規定する。フィリップスは、「この図式において、欲望は、ほかの誰かがつくりあげた誰かについての秘密を語られることに類似している」と述べている。『パイドロス』は、この説明を確認するとともに、その代替案を提示してもいる。愛される者と愛する者の両者が愛するのは、彼ら自身の秘密であり、かつ他者についての真実なのである。愛する者の欲望とは、自分の欲望としてとらえそこねたものではない。むしろ、彼が自分自身としておもいだし、抱きしめる他者の実在である。バックラブは自己愛である。しかし、少年が愛する者のなかにみてとり愛するのは、愛する者の自己でもある。そして同じように、愛する者は、彼自身の神にも似た本性を少年のなかにおもいだし賛美し、それとともに少年の現実の(理念的な) 魂を賛美してもいる。愛する者と愛される者 (この二者をまだ区別する必要があるだろうか) の双方におけるナルシスティックな愛は、他性を完全に知ることとまったく一致する。わたしはこの愛を、非人称的なナルシシズムと名づける。なぜならば、主体がみるような、他者のなかで反映された自己とは、近代的な個人主義概念の中心にある、比類なき人格性とは別のものだからである。国民的、民族的、人種的アイデンティティは、人格的な自我に類似している。そこにおいてアイデンティティは、歴史的に区分され、本質的に対立的なものとして規定されてしまう。キリスト教的信仰と同性愛とは、集団的アイデンティティの二つの例であるが、実際には一枚岩的なアイデンティティ主義者によって形成されているのではない。しかし、世界中のあらゆるところに多様な表現形態をもって散らばっているにもかかわらず、彼らが閉じこめられる想像的な空間は、同様に想像的であるが強力で有効性のある境界をつくりあげ、彼らと本質的に異なるすべてのものを、その外部に追いだしてしまう。個人的な自我と集団的な自我は、つねに境界線を防御する準備をしていなければならない。こうした自我は、本性上差異をしっかりと固定させるものなので、自我は自身を規定し、かくして、彼らのアイデンティティの境界の外側にある差異に対して攻撃的な防御姿勢をとるべく、自身の存在の統一性をつくりだそうとする。わたしが前に論じておいた自我の誇大化とは、自己同一化の行使であり、そのなかで自我は自我自身を攻撃的なアイデンティティとして経験できる。古代ギリシア文化においても、わたしたちの文化と同じく、対立的なアイデンティティという枠をはめる事例はたくさんある。市民-奴隷、男性-女性、能動者 - 受動者、愛する者-愛される者(エラトスとエロメノス)。〔だが] プラトンの『パイドロス」は明らかに、こうした認識能力の領野を解体するものである。とくに、能動的に愛する者と受動的に愛される者との対立を、ある種の相互的な自己理解を設定することによって解体するのである。そうした自己理解において、同一性と差異性とのあいだの対立そのものが、存在を構成するカテゴリーとして無意味なものになるのだ。ソクラテスが、わたしたちにおもいおこさせるように記述したものは、わたしたちの個人的な自我の日常的な現れに心理的に先だつような、潜在的存在として再び定式化することができる。潜在的存在は、明確なアイデンティティとして図示されるものではない。それはただ自身にますます似ようとする動きのなかにある。ソクラテスの恋人たちのあいだで交わされる寛容なナルシシズムにおいて、それぞれのパートナーは他者に対して、自分が愛する者の存在の類型、すなわち彼の普遍的な単独性 (それは彼の心理的な特殊性でも、人格的な差異でもない) を反映することを要求する(ソクラテスが『アルキビアデス』の対話において、アルキビアデスに要求したように)。それは、そうした単独性を、彼自身のもっとも拡散的で、もっとも差し迫った可能性としてとらえて発展させることなのである。もしわたしたちが、この非人称的なナルシシズムによって他者と関係することができるならば、他者 (彼らの心理学的個人性)との差異とは、他者とわかちもっている同一性という、より深いもの(完全には現実化されないし、みいだされることもない) のたんなる外皮にすぎないものになる。もちろん、それぞれの主体がもつ存在の種類は、誰にでも反射されるわけではない。だが、国民的にも民族的にも人種的にもジェンダー的にも境界づけられないある種の単独性の集団に属するという経験は、わたしが『ホモズ』〔本書「訳者解説」参照〕のなかで、脅威なしに同一性を補充させるものであると述べた、差異の存在論的な身分そのものをはっきりとおもいおこさせるものである。わたしがここで素描してきた関係性は、結局のところ、わたしたちの文化において支配的な関係性の、革命的な様式転倒へといたるものである。わたしたちの文化は、わたしたちを統治する悪の力を強大なものにするが、わたしたちがこの関係性の領域にとどまりつづけるかぎり、誰もがその共犯者になってしまう。ソクラテス的な愛のヴァージョンでは、わたしたちが潜在的な理想の存在者に到達するための翼は、たえずうるおされなければならない。プラトンイデア世界に固有なもの「天界の向こう側」に固定される不変的なものとは異なり、ソクラテスイデア性(わたしが普遍的な潜在性と同等にみなしているもの) は、観照されるというよりも、はぐくまれるものである。それは、対話 本質的に終わらない対話をつうじてはぐくまれる。というのも、わたしたちはつねに、他者のなかで「再発見する」ことを喜びと感じる存在に、近づいたり離れたりするからである。ソクラテスが都市の出会いの場所から離れたがらないのは何ら驚くべきことではない。彼は、わたしたちと同じように、アイディアを交換したり試したりするという、自由な目的のために対話をしたかっただけではない。彼は、潜在的な存在へと導く唯一のものである言語を使い理解するという、人間独自の能力とみなされるものの訓練をなすために対話を必要とするのである。そうした潜在的存在は、対話をつうじて、しだいにそのもの自身になっていく。フーコーが古代において着目した禁欲主義的倫理とは、おそらくはソクラテスによって、もっとも特別に実践されているものである。ソクラテスは、性の誘惑者としての自分の役割においてアルキビアデスを激高させただけではない。彼は、愛に献身的な人生と哲学的な議論に生涯没頭することは同じであることを――あるいは、無味乾燥でないいい方をすれば、対話を精神的に流体化することへの没頭と同じだということを示したのである。

pp.159-160

わたしには、ベルサーニは復讐でないような欲望の形式を想像したいようにみえる。最初の悲嘆をよぶ喪失は、自己性を守ることにより、暴力を必然的なものにしてしまう(「盾は武器なのか」というオーデン〔英国の詩人〕の問いに対するベルサーニの答えは「イエス」であるだろう)。わたしたちは、セックスを個人的なものととらえないことを学ぶべきだったのである。

pp.200-202

他者を知りたいという主体の望みは、関係性の強い渇望であるというよりも、むしろフィリップスが母と子どもの関係について記したように、「何だかわからない仕方で発達してしまう可能性に対する防御」[186頁] とみなされるべきである。非人称的なナルシシズムの基本的な前提は、他者の可能的自己を愛することとは、自己愛のひとつの形式であり、この親密性におけるパートナーは、すでにある種の存在を共有していると認識することにある(愛により知ることの共有)。「自我同一性の共謀」[191頁]に支配されるのではなく、わたしたちの (欲求や破壊の投影には支えられない)世界内存在の一般化された認識となるものに導かれるならば、「わたしたちの生は、どれほどよりよいものになりうるか」という問いに、疑念などありえようか。フィリップスの最後の文章は、それ自身、彼が提起した問いに対する適切な解答以上のものである。「わたしが外部にもっているすべてのものが、内部にあるものと巧くやっていけるのか」を問うソクラテスを引用〔192頁〕しながら、彼はそれを「所有とはまったくかかわらない」ことだと正しく結論づけている。こういった「巧くやっていくこと」の政治的な結果は莫大なものだろう。だが、それが正確にどうやったら実現するのかについて、誠実にいえば、ここできちんと述べることは無理である。すでに論じたことだが、第3章であつかったような残虐行為に対して、こういった残虐さを可能にするだけでなく避けがたいものにするような関係性の異常に向けられた、直接的に提示可能な政治的解決などは、そういうものがあれば確かに望ましいとしても、〔現実には存在しないだろう。そうした異常からの治癒は、差異を文化的にどのようにとらえるように訓練されてきたのかを検討しなおすことと、破壊的で自己壊滅的な暴力という否定しがたい興奮への禁欲的な抵抗との双方を必要とするのである (具体的なステップはいくつか存在する。わたしたちがいかに対話を構築するのか――たとえば、分析的な対話の内部において―を検討しなおすこと。子どもが、世界を家族の「外部」として、つまりそこから子どもを「守る」べき何かとして教えこんだりしないように、教育や文化の制度を組織化しなおすこと)。フィリップスが論じるように、自己性のカーいかなる場合でも、それを所有していると想定することが幻想なのだが―――の喪失という、喜ぶべき本性をうけいれることが困難だととらえられるのは、確かに奇妙なことである。だがもしも、世界との協調や、世界と「巧くやっていくこと」よりも、わたしたちがそこに住む世界との対立を望んでしまうことを、人間存在のなかでもっとも深く本質的であるような「誤謬」なのだと自覚するならば――わたしはそうすべきだとおもうのだが――それは自然なことであるのかもしれない。

訳者あとがき/檜垣立哉

pp.217-219

第1章では、セックスなしにという契約のもとでの二者関係の親密性が、そこでの関係の非対称性を突き崩すようにきわだたせられていた。第2章で問題になるのは、まさにセックスそのものの快楽主義的探求のなかで、それを突き抜けてみいだされる親密性なのである。快楽のエクスタシーとは、そもそも自己に関わる事柄なのか、他者に関連するものなのか。あるいはエクスタシー自身が、自己の他者化を示しているのか。はたまたベルサーニがベアバッカーとかさねあわせるキリスト教神秘主義者が述べるように、それはそもそも神や異世界と関連する自己解脱的なものなのか。これらは難しい問いである。一般的にいって、快楽が単純な自己愛や自己感の拡張に付随するのをみてとることは容易であるが、同時に快楽の追求がそのままマゾヒスティックな自己破壊に向かい、苦痛である快楽と同一視されることも事実だからだ。このことは、とりたててフロイト的なマゾヒズムの位置づけや、成長段階におけるその役割などを主題化せずとも自明のことである。だがこれを、第1章の議論とかみあわせるならば、さまざまな問いが浮かんでくる。第1章の二者関係においては、セックスなしの二者が、どこにも辿りつかない愛を抱えながら、非人称的な関係にいたることがとりだされていた。それに対して、ここではむしろ、常識的な性愛を越えたゲイの過剰なセックスにおいて、死への欲動に向かう究極的な自己解体の快楽が主題化される。もちろんここで、セックスの不在と過剰とはそもそも同じことではないかと述べることもできるだろう。ベルサーニが、ゲイやクィアという同性愛の文化やその位置づけに最初から関心があったことも確かである。ゲイ集団の自己アイデンティティ化に対する危険、ゲイ集団が容易に軍事的メタファーを利用してしまう右傾性、これらに対するベルサーニの率直な見解が吐露されていることも関心をひく。だがベルサーニは、クィアのアカデミックな議論のなかで排除されがちなゲイのセックス、とりわけそのなかで危険に充ちたベアバッキングという行為こそをひきたてるのである。それは、自らことさらにHIVに感染し、身を滅ぼすことを厭わない、不毛きわまりない行為である。そしてそのなかで、もっともマゾヒスティックな役割を演じる者は、自己に注ぎこまれる精液に含まれたHIVウイルスの履歴に、ゲイの集団の軌跡をみいだそうとする。それは顔をみたこともなく、またすでに死んでしまった多くのベアバッカーたちの生を継承するものなのである。こうしたベアバッキングは、一面では性愛に関わらないようにみえるキリスト教神秘主義者たちの自己投棄的行為、自己を滅ぼし神に合一化するという行為ときわめて類似していると描かれる。彼らはともに、個人としての自己を捨て、直接的な死を避けることなく、より非人称的な場面に拡がっていく者たちであるからだ。通常ではとても耐えがたい苦痛のなかで自己が消滅していくこと、ここにベルサーニは「非人称的なナルシシズム」の固有の倫理をみいだしていく。エクスタシーが、性的な絶頂感という意味をもつと同時に、そもそもek-staseであるかぎり、外-立し、自分を逸脱していく存在をさす言葉でもあることは改めて述べるまでもない。それ自身が、人間存在 (実存= ex-sistence) という単語にかさなるように、あらゆる人間存在は、自らの外にでて、他に向かうことによって自己なのである。それを念頭におけば、ベルサーニが記述することは、とりたてて奇矯なことでもない。それはひとつの極限的な事例をとりだすことによって、あらゆる存在者がわかちもっている事態を明確化するものでもある。

訳者解説/宮澤由歌

pp.240-250

本作は全編を通じて、ベルサーニの議論が、批評の枠に留まることなく彼自身の哲学を展開する点に特色がある。その論考は、極めて緻密であるとか、説得的であるというより、むしろ荒々しいがゆえに力強い勢いで繰り広げられる。本書は、第1章や第3章に見られるような文学解釈の研究書としての価値以上に、ベルサーニの長年にわたる批評業の先に広がった思想地図をわれわれ読者に提示した点で意義深いといえる。ここからは本書の内容に踏み込み、これまでのベルサーニの議論と本書をつなぐいくつかの点を挙げていこう。

ベルサーニは、本書で論じたことを「人間の主体が心理学的な主体以上のものでありうることを示すひとつの方法」[194頁] と指し示す。心理学的な主体とは、ベルサーニのことばを用いていいかえれば、人格的に尊重され、個人として強固にされた主体のことである。また、精神分析や心理学的な自己愛は、心理学的な主体がもつ自己性の力を増幅させると考えられる。自己性が、暴力を生じさせるものとして取り扱われていることは、本書を一読すれば明らかであろう。第3章で論じられたように、暴力的な力である悪の力は、愛の力と一元化しうるものなのかもしれない。その一方で、ベルサーニは「愛の力が世界を救えるとか、悪のカを征服できると述べつづける偽善的な連中のお説教と、気味のわるい仕方で共鳴してしまう」[128頁]と述べ、愛の力を道徳的に位置づけることを危険視しもする。ベルサーニは、自己性で強固にされた主体や自我が、暴力的な仕方で他者に接触しようとするのではなく、愛や慈善を発揮することこそ大切だと結論づけたいのではない。そこで、冒頭に引用したベルサーニのことばに戻ってみよう。本書で読者に向けて示されるのは、暴力的な自己性を肥大化させることなしに、主体が存在する可能性の模索過程である。本書の構成のなかで、第1章は難解なレトリックを絡めたテーマが提議されている。実際に、第1章で紹介される二つの物語の解説と批判点は、第2章、第3章と言説が進むにしたがって明確になるところが大きい。そこで、第1章の解説は後回しにして、第2章の内容からみていこう。

第2章の冒頭では、一九八七年に「直腸は墓場か」でセンセーショナルに提起されたベルサーニクィア的態度が反復される。ベルサーニはある種の同性愛者たちに対して異議を申し立てる。それは、ゲイの過激な性行動やエイズに関する政治問題を語りたがらない知識人たちに対するものである。ゲイのマイノリティ文化を彼らの性行動と切り離してアイデンティティ化しようとする一部の活動家たちに対し、ベルサーニは本書の二〇年以上前から警告を発してきた。フィリップスも引用する「セックスにはおおきな秘密がある。ほとんど誰もそれが好きではない」がベルサーニによって書かれるとき、好きではない「ほとんど」の人々とは、ミシェル・フーコーが指摘してきたように欲望を含めたセクシュアリティの支配に関わってきた異性愛者のみを指すのではない。上記のように、性的快楽や性的欲望に対して黙秘する一部のゲイたちにもあてはまるのである。そこでベルサーニは、普遍的な人間にとっての性的快楽や性的欲望とは何かを解釈しようと試みる。第3章の前半で、ベルサーニは、フーコーの欲望への視点を「欲望について意図化する観点へと従属させてしまった」とし、「近代的主体の欲望の本性や内容というよりも、主体の欲望 (とくに性的な欲望)こそがその者の存在の鍵であるという (権力に促された)見地に主体が従属していること」の重要視を批判し、精神分析、とくにフロイトの理論に向き合っていく。「フロイト的身体』で論じられたマゾヒズムの重要性や、享楽概念に内在する性的快楽のしくみは、本書の第3章でよりその内実に踏み込んだ形で紹介されている。

欲望に関する思弁的な解釈が精神分析理論を参考に進む一方で、乱交の実践の必要性は、「直腸は墓場か」においてすでに示されていた。そこには、ゲイをはじめとするセクシュアル・マイノリティの人々が、政府の広告とそれに洗脳された人々によって迫害される事態に対する危機感がある。ベルサーニが抵抗のために乱交を推奨することにも道理がある。彼の理論の出発点は、差別やスティグマ化によって生を脅かされる人々の生存のための道筋を見いだすことにある。その仕方は、アメリカで興隆した多文化主義と共鳴する仕方でゲイのアイデンティティをかかげることではない。むしろ普通的な人間全体が有する性への抑圧や嫌悪感に対して、ゲイの性行為がもつポテンシャルを引きだすことにある。乱交という過激な性行為と、エイズという殺人的ウイルスは、一般的に人々が厭悪する対象であるという点では一致する。本書の第2章で両者は肯定的に語られるが、それは、ベルサーニがゲイの性行為に何らかのポテンシャルを見いだすからである。その特徴は、『ホモズ』の4章ですでに論じられているように、「性行為から関係の必要性をどれもこれも除去する」要素にある。『ホモズ』の4章で述べられるのは、性行為において他者が不要であることの告発であり、本書の用語を用いれば、人格間の関係にかんする幻想をさらけだすことの宣告である。『ホモズ』4章におけるジッドとプルースト、そしてとりわけシュネの「弾儀」の解釈では、ゲイの性行為はお互いを理解するためのものではまったくなく、むしろ性行為に没頭する者がそれぞれ「互いとのセックスの交わりではなく世界との交わりへと」関係させられるものとみなされる。そこでの他者は、「権利と義務の主体である人格として尊重も侵犯も受けず、ナルシシズム的快楽のための無意味かつもうひとつの機会として誘惑されるだけ」で、そのため、自分や他者を知るといった目的は達成しえないのである。このような同性愛の性行為の関係性は、一見すると独我論的で特殊である。ラディカル・フェミニズムが明らかにしてきたように、一般的な男女の性行為が、支配と被支配の暴力的な幻想を基盤にするとすれば、他方でベルサーニが見る同性愛の性行為は、他者に対する侵害でなく(もちろん、尊重や愛情でもなく)、むしろ自我を危険に晒すものである。同性愛の性行為においては(ベルサーニが本書の第2章で明らかにしたように)、個体であるところの主体の自我は貶められ、解体させられる危険をはらんでいる。ベルサーニが第1章においてIt=非人称性と名ざしたものが、ここで表面化する。主体の内部で自我が解体させられたあとではじめて見えてくる「余白」(ベルサーニが引用したギヨーム・デュスタンのことば)である。余白は、存在者すべてが分かちもつ共有の性質、すなわち「すべての人に開かれ」る性質をもつものであると思われる。だがベルサーニは、自我が実際に解体されてしまうことに対して暗に否定的である。自我が壊されてしまうことなしに、デュスタンのいう「余白」を信頼するための仕方として、ベルサーニが第3章でとりあげるのは、「パイドロス」の対話から見る言語でのやりとりである。

第3章の後半でソクラテスパイドロスの対話が持ちだされるのは、まさに以上のような要請にしたがったものだといえる。本書の中心概念である非人称的なナルシシズムは、ソクラテスパイドロスのあいだで交わされる対話のなかで名づけられる。統制されるセクシュアリティの物語のからくりを明らかにしたフーコーを基盤とし、ここでは新たな性愛の関係性が検証されている(ベルサーニフーコーが「新たな関係の様式」と呼んだものの模索を目論んでいる)。そこでは、第4章でフィリップスが指摘するように、言語の存在が不可欠である。言語にかんするフィリップスの指摘は、ベルサーニのひとつの目標をより鮮明にするものである。プラトンパイドロスのあいだにみられる対話は、フィリップスによって、「ある程度は、母や父が子どもに対してなしうるものとしても記述可能ではないか」と仮定される。フィリップスが導入する母と乳児の関係性は、乳児の潜在的存在をめぐって、愛のなかで展開される。言語は「何だかわからない仕方で発達してしまう可能性に対する防御」[186頁]のための道具として用いられる。フィリップスが指摘するように、そのような愛ですら、自我に対するフラストレーションを有する。それを踏まえた上で、フィリップスは、非人格的ナルシシズムを「いずれにせよ、暴力に訴えずにフラストレーションに耐える訓練」[179頁]と形容し、その肯定的な側面を指摘している。くわえて、フィリップス自身も明言しているように、「愛とはつねに境界侵犯である」[149頁]のならば、非人格的ナルシシズムも境界侵犯であるということができるだろう。問題は、何と何のあいだの境界を侵害するものであるか、ということである。フィリップスは次のように言う。「大切ではあるが恐るべきものでもある自己イメージから、それを経験する以前にはけっしてもちえないような自己イメージへ向かう、そうした境界線であるかのようだ」[182頁]それは、過去に存在する主体の記憶と未来における可能的で知り得ない自己との境界であり、まさに現在のわたしが瞬間瞬間において誰かとともに(あるいは、ベルサーニがクリストファー・ボラスのことばを用いて「共存在」と名さした仕方で)通過する境界ということができる。その際、「恥ずかしさ」という感情が現れることをフィリップスは指摘する。境界を侵害する (侵害される)ときに生じる「本当に実在している誰かの最後の一息」[188頁]としての恥ずかしさは、わたしたちの未来においてわたしがわたしだけで存在しないことの証左となってくれる。なぜならば、「大切ではある」自己イメージの記憶の侵害や、新たな自己イメージの「生成」は、それまでの自己ひとりでは原理的になしえないからだ。知り得ない未来として表象されるものは、愛の相互的な関係においては共有物として存在するが、それを我有化や独占しようとすることが、自己性を強固に肥大化し、暴力をうむのである。

第1章の冒頭で引用されたフィリップスの命題、「精神分析は、セックスしないと決めた二人が、たがいに何をはなすことが可能なのかを問うものである」は、非常に禁欲的な精神分析の状況を説明するものである。映画『親密すぎるうちあけ話』において、最後のシーンで主役の二人が抱き合うイメージを映し出さないことは、ベルサーニにとっては偶然の出来事ではない。すでに引用したように、一般的にセックスが暴力的な出来事の模倣や反復であるとするならば、禁欲的であることによって対話を遂行していく状況は、非人称的なナルシシズムをうみだす格好の場であるといえる。ベルサーニが、第1章でふたつの物語における対話にかんして示唆していた点を指摘して、本解説の結語としたい。ベルサーニは、『親密すぎるうちあけ話』のルコント監督が映画の製作にあたって『ジャングルのけもの』にヒントを得たのだろうと指摘したのち、フランス南部での登場人物の会話の再開に関して次のように述べる。「そこ [分析的な対話のなか]での享楽は、具有化された言語をつうじて、他者の主体性を与えたりうけとめたりする」[59頁]。会話のなかで得られる「暴力的でない享楽」、「禁欲的な快楽」は、可能的自己の具有化を果たす言語装置のなかで生じる。そして、引用部での「他者の主体性」とは、第3章の非人格的ナルシシズムの説明のなかでベルサーニが述べているように、「彼ら自身の秘密であり、かつ他者についての真実」[141頁]である。別の部分を引用していいかえれば、「存在としての知であり、あらゆる特定の存在の根拠に存在するすべてを含んだ存在としての知」である。「知としての無意議」と表現されることからもわかるとおり、精神分析的な自我においては、この知は無意識的なものであり、可能的なものとしてしかあらわれえない。だからこそベルサーニは、精神分析のそなえる分析的な対話の独自なものとして「ただの可能性でしかない可能性や、たんに可能性としてのみ存在する振る舞いや思考でさえもうけいれること」[58頁]に価値を置くのである。ここでの「真実」や「存在としての知」を知ることこそが、ベルサーニにとっての愛であり、非人格的ナルシシズムである。ベルサーニは次のようにも述べる。「愛する者と愛される者の双方におけるナルシスティックな愛は、他性を完全に知ることとまったく一致する」[141頁]。フロイトの「無意識」 論文を参考にすれば、他性は、心理学的な主体や自我にとって「外部にもっているもの」にほかならない。本書では、「わたしが外部にもっているすべてのものが、内部にあるものと巧くやっていけるのか」[192頁] という問いが開かれ、結末にいたる。ソクラテスによるこの問いが、倫理的な判断をおこなう主体を要請していることは自明のことだろう。また、心理学的な主体以上のものでありうる人間の主体が存在するのだとすれば、それは、この問いの意味を理解し、暴力的でない関係性のあり方を模索しつづけていく主体であることに間違いはない。

メモ:丸山眞夫『日本の思想』

初版1961年。読んだのは1997年第67刷

岩波書店から刊行された一冊です

 

図書館で借りたものの、返却期間内には読み終えられずに半端な読書になってしまった本です。もはや古典に属する丸山氏の代表作です。これが数ヶ月前ブックオフの100円コーナーにあるのを見て…その時の私がどういう表情を浮かべたかはよく覚えていませんが、なんだか「すごい気持ち」になったことだけはざらついた感触として確かに残ってます

 

以下個人的ベストを引用

と言っても、全部引用したいくらいの内容です

 

pp.11-13

 伝統思想がいかに日本の近代化、あるいは現代化と共に影がうすくなったとしても、それは前述のように私達の生活感情や意識の奥底に深く潜入している。近代日本人の意識や発想がハイカラな外装のかげにどんなに深く無常感や「もののあわれ」や固有信仰の幽冥観や儒教的倫理やによって規定されているかは、すでに多くの文学者や歴史家によって指摘されて来た。むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルペったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入って来たいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。それは直接には歴史的発展という考え方にたいする、あるいはヨリ正確には発展思想の日本への移植形態にたいする一貫した拒否の態度と結びついているが、すくなくも日本の、また日本人の精神生活における思想の「継起」のバターンに関するかぎり、彼の命題はある核心をついている。新たなもの、本来異質的なるのまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。

 これは特に国家的、政治的危機の場合にいちじるしい。日本社会あるいは個人の内面生活における「伝統」への思想的復帰は、いってみれば、人間がびっくりした時に長く使用しない国靴りが急に口から飛び出すような形でしばしば行われる。その一秒前まで普通に使っていた言葉とまったく内的な関連なしに、突如として「噴出」するのである。(近代史の思想的事件として、たとえば維新の際の廃仏殿釈、明治十四年前後の儒教復活、昭和十年の天皇機関説問題など。)個人の場合でも、教養が「西欧化」した思想家の日本主義への転向は、蘇峰にしても樗牛にしても横光にしても、現われ方ははなはだ突然変異的だが、それはいずれもこれまで彼等の内部にまったく存しなかったものへの飛躍(回心)ではなかった。ただ「つい昨日まで」と続かないだけのことである。高村光太郎は『暗愚小伝』のなかで、大平洋戦争勃発の報に接したときの、こうした「思い出」の噴出を真撃にうたっている*。(戦後かれはふたたびロダンの「思い出」にかえった。)

 過去に「摂取」したるのの中の何を「思い出」すかはその人間のパーソナリティ、教養目録、世代によって異ってくる。万葉、西行神皇正統記吉田松陰岡倉天心フィヒテ葉隠道元文天祥、バスカル等々々、これまでの思想的ストックは豊富だから素材に事欠くことはない。そうして舞台が一転すると、今度はトルストイ、啄木、資本論魯迅等々があらためて「思い出」されることになる。何かの時代の思想もしくは生涯のある時期の観念と自己を合一化する仕方は、はたから見るときわめて恋意的に見えるけれども、当人もしくは当時代にとっては、本来無時間的にいつもどこかに在ったものを配置転換して陽の当る場所にとり出して来るだけのことであるから、それはその都度日本の「本然の姿」や自己の「本来の面目」に還るものとして意識され、誠心誠意行われているのである。

 * ………昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/父が母がそこに居た。/少年の日の家の雲霧が/部屋一ばいに立ちこめた。/私の耳は祖先の声でみたされ、/陸下が、陸下がと/あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。/………

 

pp.16-17

 ヨーロッパ的伝統への必死の抵抗としてうまれたものが、わが国に移植されると存外古くからの生活感情にすっぽり照応するために本来の社会的意味が変化するということもよくおこる。たとえばニーチェの反語やオスカー・ワイルドの逆説は、キリスト教——これこそヨーロッパの最も頑強な「公式」だ——の長年酒養した生(レーベン)の積極的肯定の考え方が普遍化している社会でこそ、そこに現実とのはげしい緊張感がうまれるが、日本のように生活のなかに無常感や「うき世」観のような形の逃避意識があると、ああしたシニシズムや逆説は、むしろ実生活上の感覚と適合し、ニヒリズムが現実への反逆よりもむしろ順応として機能することが少くない。ここでは逆説が逆説として作用せず、アンチテーゼがテーゼとして受けとられ愛玩される。たとえば世界は不条理だという命題は、世はままならぬもの、という形で庶民の昔からの常識になっている。

 逆説や反語を得意とする評論家がマルクス主義の「公式」を眼のかたきにするのは、むろん政治的(もしくは反政治的)姿勢にもよるが、それだけではなくて、キリスト教の伝統のないところでは、そこにしかヨーロッパ的公式の対応物がないという事情もひそんでいるように思われる。こうして「マルクス主義的」知識層にたいするスマートな逆説家と庶民の「伝統的」実感——もしくはそれに寝そべるマス・コミとの奇妙な同盟が成立し、「進歩的知識人」は両者にはさみうちになって孤立するという事態がうまれるわけである。日本のマルクス主義における後述する「理論信仰」がいよいよこの事態をはなはだしくしているのであるが、すくなくも、そうした「反逆」的姿勢が現実にはしばしば大勢順応として機能するのは政治的条件を一応べつとして、右のような日本の精神的状況と深くかかわっている。

 

pp.19-20

宣長が、道とか自然とか性とかいうカテゴリーの一切の抽象化、規範化をからごころとして斥け、あらゆる言あげを排して感覚的事実そのままに即こうとしたことで、そのために彼の批判はイデオロギー暴露ではありえても、一定の原理的立場からするイデオロギー批判には本来なりえなかった。儒者が、その教えの現実的妥当性を吟味しないという規範信仰の盲点を衝いたのは正しいが、そのあげく、一切の論理化=抽象化をしりぞけ、規範的思考が日本に存在しなかったのは「教え」の必要がないほど事実がよかった証拠だといって、現実と規範との緊張関係の意味自体を否認した。そのために、そこからでて来るものは一方では生まれついたままの感性の尊重と、他方では既成の支配体制への受動的追随となり、結局こうした二重の意味での「ありのままなる」現実肯定でしかなかった。

 

pp.27-28

B・ラッセルはかつて、中国文化にたいするヨーロッパ文化の優越は、ダンテ、 シェイクスピアゲーテ孔子老子にたいして勝を占めたという事実に基づくのではなく、むしろ、平均的にいって、一人のヨーロッパ人が、一人の中国人を殺すのは、その逆の場合よりも容易だという、はるかにブルータルな事実に基づくのだ、と辛らつな言を吐いたが、東洋にとってのヨーロッパ近代はもっとも切実かつ具体的には、帝国主義と結びついた機械と技術を意味していた。ただわが国の場合は、中国の思想的文化的伝統にたいする「伝統的」コンプレックスが、対西洋コンプレックスに接続したために、東洋対西洋の問題と、東洋における「近代」の チャンピオンとしての日本という問題とが思想的に交錯し、それが後に日本が帝国主義的発展をとげるほど虚偽意識的性格を強め、安易な東西「綜合」観が発酵するにいたったのである。

 

pp. 45-47

ともかく、条約改正を有力なモチーフとする制度的「近代化」は社会的バリケードの抵抗が少なかっただけに、国家機構をはじめとする社会各分野にほとんど無人の野を行くように進展した。ただし絶対主義的集中が前述のように権力のトップ・レヴェルにおいて「多頭一身の怪物」を現出したことと対応して、社会的平準化も、最底辺において村落共同体の前にたちどまった。むしろその両極の中間地帯におけるスピーディな「近代化」は制度的にもイデオロギー的にもこの頂点と底辺の両極における「前近代性」の温存と利用によって可能となったのである。その際底辺の共同体的構造を維持したままこれを天皇制官僚機構にリンクさせる機能を法的に可能にしたのが山県の推進した地方「自治制」であり、その社会的媒介となったのがこの共同体を基礎とする地主=名望家支配であり、意識的にその結合をイデオロギー化したのがいわゆる「家族国家」観にほかならない。

 この同族的(むろん擬制を含んだ)紐帯と祭記の共同と、「隣保共助の旧慣」とによって成立つ部落共同体は、その内部で個人の析出を許さず、決断主体の明確化や利害の露わな対決を回避する情緒的直接的=結合態である点、また「固有信仰」の伝統の発源地である点、権力(とくに入会や水利の統制を通じてあらわれる)と恩情(親方子方関係) の即自的統一である点で、伝統的人間関係の「模範」であり、「國體」の最終の「細胞」をなして来た。それは頂点の「國體」と対応して超モダンな「全体主義」も、話合いの「民主主義」も和気あいあいの「平和主義」も一切のイデオロギーが本来そこに包摂され、それゆえに一切の「抽象的理論」の呪縛から解放されて「一如」の世界に抱かれる場所である*。したがって「近代化」にともなう分裂・対立など政治的状況を発生させる要因が、頂点の「闘置」と同様に底辺の「春風和気子ヲ育シ孫ヲ長スルノ地」(山県の言)たる「自治体」内部に溶透するのをあらゆる方法で防遏(ぼうあつ)するのが、明治から昭和まで一貫した支配層の配慮であった。

*「かうした家の中にあつては、家長を中心として一家が同体である。其処には私有財産もなく、共働、共有だ。家の上のものを尊敬するところに、上のものも下のものを労らなければならない。子供を育てるためには、一家の中心にある人は労作をしなければならない。一家に病人があればその人は誰より多く消費するが、決して本の人は不平を云はないであらう。……ここでは理論でなしに現実が支配してゐる。かうした家族主義の特質は、今日封建的な形骸を破つて、新しく我々に受けとられなければならないのではなからうか。共産主義者が夢みた様な社会は我々の足下にあつたのである。」(小林杜人編『転向者の思想と生活』一五頁)。

 

pp.53-55

 日本の近代文学は「いえ」的同化と「官僚的機構化」という日本の「近代」を推進した二つの巨大な力に挟撃されながら自我のリアリティを個もうとする懸命な摸索から出発した。しかもここでは、(ⅰ)感覚的な二ュアンスを表現する言葉をきわめて豊富にもつ反面、論理的な、また普遍概念をあらわす表現にはきわめて乏しい国語の性格、(ⅱ)右と関連して四季自然に自らの感情を託し、あるいは立居振舞を精細に観察し、微妙にゆれ動く「心持」を極度に洗練された文体で形象化する日本文学の伝統、(ⅲ)リアリズムが勧善懲悪主義のアンチテーゼとしてだけ生まれ、合理精神(古典主義)や自然科学精神を前提に持たなかったこと、したがってそれは国学的な事実の絶対化と直接感覚への密着の伝統に容易に接続し自我意識の内部で規範感覚が欲望や好悪感情から鋭く分離しないこと、(ⅳ)文学者が(曝外のような例は別として)官僚制の階梯からの脱落者または直接的環境(家と郷土)からの遁走者であるか、さもなくば、政治運動への挫折感を補完するために文学に入っためのが少くなく、いずれにしても日本帝国の「正常」な臣民ルートからはずれた「余計者」的存在として自他ともに認めていたこと——などの事情によって、制度的近代化と縁がうすくなり、それだけに意識的な立場を超えて「伝統的」な心情なり、美感なりに著しく傾斜せざるをえなかった。

 そこでは制度にたいする反搬(=反官僚的気分)は抽象性と概念性にたいする生理的な嫌悪と分ちがたく結ばれ、また、前述した「成上り社会」での地位と名誉にたいする反情と軽蔑(ときにはコンプレックス)に歴胎する反俗物主義は、一種の仏教的な厭世観に裏づけられて、俗世=現象の世界=概念の世界=規範(法則)の世界という等式を生み、ますます合理的思考、法則的思考への反搬を「伝統化」した。しかもヨーロッバのロマン主義者のように自然科学的知性そのものを真向から否定するには、近代日本全体があまりに自然科学と技術の成果に依存しており、またその確実性を疑うほどの精神の強烈さ(あるいは頑固さ)もわが国の文学者は持ち合わせない。こうして一方の極には否定すべからざる自然科学の領域と、他方の極には感覚的に触れられる狭い日常的現実と、この両極だけが確実な世界として残される。文学的実感は、この後者の狭い日常的成感覚の世界においてか、さもなければ絶対的な自我が時空を超えて、瞬間的にきらめく真実の光を「自由」な直観で摘むときにだけに満足される。その中間に介在する「社会」という世界は本来あいまいで、どうにでも解釈がつき、しかる所詮はうつろい行く現象にすぎない。究極の選択は 2×2=4 か、それとも文体の問題かどちらかに帰着する! (小林秀雄『Xへの手紙』)

 

pp.55-59

 マルクス主義が社会科学を一手に代表したという事は後で述べるような悲劇の因をなしたけれども、そこにはそれなりの必然性があった。第一に日本の知識世界はこれによって初めて社会的な現実を、政治とか法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づけて綜合的に考察する方法を学び、また歴史について資料による個別的な事実の確定、あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的導因を追求するという課題を学んだ。こういう綜合社会科学や構造的な歴史学の観点は、コント、ルソー、スペンサー、バックルなどの移植された明治初期にはあったけれども、一つには天皇制の統合過程によって、また二つにはあたかもヨーロッバでは十九世紀以降、社会科学の個別化専門化が急速に進行しアカデミーの各科がそうした初めから専門化された学問形態を受け入れる一方、ジャーナリズムはますます大衆化したという事情の為に、知的世界からいつか失われてしまったのである。マルクス主義の一つの大きな学問的魅力はここにあった。

 第二に右のことと関連して、マルクス主義はいかなる科学的研究も完全に無前提ではあり得ない事、自ら意識すると否とを問わず、科学者は一定の価値の選択の上に立って知的操作を進めて行くものである事を明かにした。これまで哲学に於てのみ、しかし甚だ観念的に意識されていた学問と思想との切り離し得ない関係を、マルクス主義は「党派性」というドラスチックな形態ですべての科学者につきつけた。しかもその思想は世界をいろいろと解釈するのではな

くて、世界を変革することを自己の必然的な任務としていた。直接的な所与としての現実から認識主体をひとたび隔離し、これと鋭い緊張関係に立つことによって世界を論理的に再構成すればこそ、理論が現実を動かすテコとなるという、これまた凡そデカルト、ベーコン以来近代的知性に当然内在しているはずの論理は、わが国ではマルクス主義によって初めて大規模によび醒されたといっても過言ではない。さらにキリスト教の伝統を持たなかったわが では、思想というものがたんに書斎の精神的享受の対象ではなく、そこには人間の人格的責任が賭けられているということをやはり社会的規模に於て教えたのはマルクス主義であった。たとえコンミュニストの大量転向が、前述したように思考様式からすれば、多くは伝統的な形でおこなわれたにしても、思想的転向がともかく良心のいたみとして、いろいろな形で(たとえマイナスの形ででも)残ったということは、少くるこれまでの「思想」には見られなかったことである。マルクス主義が日本の知識人の内面にきざみつけた深い刻印を単にその他もろもろのハイカラな思想に対すると同じに、日本人の新しがりや知的好奇心に帰するのが、どんなに皮相な見解であるかはこれだけでも明らかだろう。

 しかしながら、マルクス主義が日本でこのように巨大な思想史的意義をもっているということ自体にまた悲劇と不幸の因があった。近世合理主義の論理とキリスト教の良心と近代科学の実験操作の精神と——現代西欧思想の伝統でありマルクス主義にも陰に陽に前提されているこの三者の任務をはたしてどのような世界観が一手に兼ねて実現できようか。日本のマルクス主義がその重荷にたえかねて自家中毒をおこしたとしても、怪しむには足りないだろう。このことを逆にいうならば、まず第一に、およそ理論的なもの、概念的なもの、抽象的なものが日本的な感性からうける抵抗と反擬とをマルクス主義は一手に引受ける結果となった。第二に必ずしもマルクス主義者に限らず一般の哲学者、社会科学者、思想家にも多かれ少かれ共通し、むしろ専門家以外の広い読者層あるいは政治家、実業家、軍人、ジャーナリスト等が「教養」として、哲学・社会科学を重要視する際によりはなはだしい形であらわれるところの理論ないし思想の物神崇拝の傾向が、なまじマルクス主義が極めて体系的であるだけに、あたかもマルクス主義に特有な観を呈するに至った。ちょうどマルクス主義が「思想問題」を独占したように、公式主義もまたマルクス主義の専売であるかのように今日でも考えられている。その際、「公式」というるのがもつ意味や機能は殆んど反省されず、またマルクス主義以外の主義・世界観・教義などが果して日本の土壌で理解され信奉されるときはマルクス主義に劣らず公式主義的にならないかという問題はともすると看過されるのである。

 理論信仰の発生は制度の物神化と精神構造的に対応している。ちょうど近代日本が制度あるいは「メカニズム」をその創造の源泉としての精神——自由な主体が厳密な方法的自覚にたって、対象を概念的に整序し、不断の検証を通じてこれを再構成してゆく精神——からでなく、既成品としてうけとってきたこととパラレルに、ここではともすれば、現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。それによって理論や概念はフィクションとしての意味を失ってかえって一種の現実に転化してしまう。日本の大学生や知識人はいろいろな範鳴の「抽象的」な組合せによる概念操作はわかえって西洋人よりうまいと外国人教師に、皮肉を交えた驚嘆を放たせる所以である。

 しかしこうして、現実と同じ平面に並べられた理論は所詮豊鏡な現実に比べて、みすぼらしく映ずることは当然である。とくに前述のような「実感」に密着する文学者にとっては殆んど耐えがたい精神的暴力のように考えられる。公式は公式主義になることによって、それへの反撥も公式自体の蔑視としてあらわれ、実感信仰と理論信仰とが果しない悪循環をおこすのである。

 しかし第三に、理論と現実の関係においてトータルな世界観としてのマルクス主義の特有の考え方が、日本の知識人の思考様式と結合して、一層理論の物神化の傾向を充進させたことも見逃してはならない。マルクス主義は、周知のように、ミネルバの梟は夕暮れになって飛期をはじめるというヘーゲル主義、すなわち一定の歴史的現実がほぼ残りなくみずからを展開しおわった時に哲学はこれを理性的に把握し、概念にまで高めるという立場を継承しながら同時にこれを逆転させたところに成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証しになるというところに、資本制生産の全行程を理論化しょうとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった。しかしながら、こうした歴史的現実のトータルな把握という考え方が、フィクションとして理論を考える伝統の薄いわが国に定着すると、しばしば理論(ないし法則)と現実の安易な予定調和の信仰を生む素因ともなったのである。

 

またブックオフかどこかで出会った時には、再チャレンジを誓って手に取ろうと思います