痛見心地

思ったこと感じたこと、おふざけ、メモ、たまに感傷的になったりと、ここは「しもうさ」の自由な文手箱です

メモ:ベルサーニ/フィリップス『親密性』

レオ・ベルサーニ/アダム・フィリップス(檜垣立哉/宮澤由歌訳)『親密性』

初版2012年。洛北出版から刊行された一冊です

 

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http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27163.html

 

個人的ベストを引用したら1万字を超えました

 

pp.126-127

フロイトラカンによってもっとも深く例示される精神分析的観点からみれば、愛の理論は脱神秘化されざるをえない。だが、ありとあらゆるタイプの愛についての別の理論は、ひとつの前提を共有している。すなわち、愛において人間主体は、とりわけ他性に開かれるということである。特権的な対象は、わたしたちの欲望を固定する。その欲望は多くの形式をとりうるし、必ずしも対象の知識や、それへの尊重をそなえる必要はない。さまざまな愛のかたちの一方には、他者と自分との差異に浸透していき、他者と同一化しようとしたりしなかったりするもっぱら性的な情熱がある (幸福なものであれ不幸なものであれ)。他方には、非性愛的にすべてを消尽させる現象として、超越的で横暴な神の人知を超えた意志への服従により要求される無条件な自己剥奪があり、これは十七世紀の神秘主義者に記述された「純粋な愛」でもある。これらを両極において、すべての愛をみるならば、そのひとつの普遍的特徴は、自分と区別された (個人的・集団的・神的)対象への、情熱的で揺るぎない配慮 (要求されているか否か、また性愛的であるか否かにかかわらず)であるようにおもわれる。愛の概念のほとんどが、愛される対象との合一という発想を含むことからみれば、この区別は、愛する者と愛される者との永続的な分離を意味するものではない。二人の異なった存在は、個人的な愛の充足した幸福感のなかで溶けあってしまうと考えられるかもしれない。愛国者はよろこんで犠牲になる国家に「属する」のである。また、「純粋な愛」の実践者は、自らの主体が無化されてしまう神の意志へのみこまれることを渇望するのである。

pp.137-146
愛する者は、自分に似た恋人をえようとする。だがこれは、個人的なナルシシズムの鏡面性とは関係がない。彼は、愛する者の存在の類型にすでに属している少年を選ぶのである。そしてソクラテスによれば、愛する者は少年の魂に彼自身の神の「霊感」――それによってまず彼は少年を選んだのであるが――をさらに流しこむ。愛する者は、「(愛する少年を)自分に、ひいては自分の尊崇する神に、できるだけ完全に似た人間にしようと努力」しながら、同時に少年をより自分自身らしくしようと試みる。愛する者は、自分の普遍的な個人性のイメージをナルシスティックに愛するのであり、そのイメージを愛する少年のなかに与える。そのとき、彼は愛される者が現にそうである以上に、つまり彼らがすでに共有している存在の類型以上のものを与えるのである。ソクラテスにおける愛する者のナルシシズムは、他者ではなく、人格性の付帯的性質を抑圧するのである。そうして愛される者は、彼らがともに仕える神の姿のなかに、神話化された普遍的な単独性をいっそう的確に映しだすのである。こうしたきわだった愛の解剖学は、フーコーが賞賛し、ほかの人々もそう理解してきたような、ギリシア的な愛の異様さを導きだす。それはエロティックな相互依存なのである。愛される者は、愛されることの結果として愛する者になる。どのようにしてか。ソクラテスによれば、愛する者は、自分が天界でかいまみたもののイメージをみて「驚く」。それと同様に少年は、「愛する者が彼に提供する例外的な友情関係に驚く」。少年の美は、愛する者のうちにある欲望をふんだんに溢れさせ、「いっぱいに満たされると、その一部は外に流れでる」。「考えてみよ」。ソクラテスはこう述べる。「あたかも風やこだまが、滑らかで固いものにあたって跳ね返り、そこからふたたび、もと来たところへともどっていくように、この美の流れも、ふたたび美しい愛される者のもとにもどるのである」。それは眼を通過して、愛される者の魂へとはいっていく。「そこでそれは翼の通路をうるおし、翼が生えようとする衝動を与え、こんどは愛される者の魂を、恋でみたすことになる。こうして、少年は恋に落ちる――しかし彼は、自分が何を愛しているのかわからない」。あたかも彼は、自分では原因のわからない病いにかかったかのようである。ソクラテスは、こうした愛のナルシスティックな本性をはっきりと規定する。少年は、「あたかも鏡のなかに自分の姿をみるように、自分を愛する者のなかに、自分自身をみているのだということがわからない。そして、愛する者が彼を求めるように、彼も愛する者を求めるのである」。「というのも、彼は彼のなかに、鏡のイメージを探るのだから」(ギリシア語では、この愛の型はアンテロースという。それは「カウンターラブ」や「バックラブ」と訳されてきた)。愛される者は愛する者のなかの自分のイメージを愛する。それはもちろん、彼自身のひとつのヴァージョンであり、愛する者に、天界の美とその魂が浮遊しつつしたがっていた神とをおもいおこさせるからである。少年は、彼の現在の魂と、生成しつつある魂の両方を愛するのである。後者は、愛する者がすでに少年のなかにみていた本性をわかちもつ神の性質を、ますます彼に与えることの結果である。自我は、必ずしもすでに失われた何かでも、ほかの者に投影する何かでもない。過大評価された愛の対象でもないということを考慮からはずせば、フロイトの言葉に仮託してこういえるかもしれない。少年は愛する人のうちに自分の理想自我をみて、それを愛するのだと。ところがむしろ逆のことが生じている。この自我は、愛する者が彼のなかで愛しているものである。ある意味で、愛する者は少年のなかに、自分の理想自我をみいだす。少年を欲望することは、少年にとっても愛する者にとっても理想的な自己を、少年に与えつづけることである。愛する者の欲望は、彼の魂によく似た魂の、小さく未発達な翼をうるおしていく。そして、愛される者の理想的な本性をもった翼が成長するとき、愛する者は――神的な狂気にかりたてられ 「夢中になる。少年の姿が、いっそう少年それ自身に、いっそう愛する者自身に、そしてよりいっそう、彼らがともにしたがう神、すなわち彼らがともに属する存在の種類に似ることに夢中になるのである。ここで不思議なのは、この愛をナルシスティックなものとして記述するとき、これを純粋な対象愛であるといわなければならないことである。アダム・フィリップスは、「自分自身で欲望すること」と題された最近の論考で、つぎのような「臨床的命題」を提案する。「わたしたちの願いは、世界と関わりをもたないことである」。ジャック=アラン・ミレールの述べる 「外密性[extimacy]」の概念を検討しながら、フィリップスは、分析の試みを、主体の内部にあるとともに主体の「他者」の内部にある「欲求する源泉」によって「所有されることに耐える」のを学ぶことであると規定する。フィリップスは、「この図式において、欲望は、ほかの誰かがつくりあげた誰かについての秘密を語られることに類似している」と述べている。『パイドロス』は、この説明を確認するとともに、その代替案を提示してもいる。愛される者と愛する者の両者が愛するのは、彼ら自身の秘密であり、かつ他者についての真実なのである。愛する者の欲望とは、自分の欲望としてとらえそこねたものではない。むしろ、彼が自分自身としておもいだし、抱きしめる他者の実在である。バックラブは自己愛である。しかし、少年が愛する者のなかにみてとり愛するのは、愛する者の自己でもある。そして同じように、愛する者は、彼自身の神にも似た本性を少年のなかにおもいだし賛美し、それとともに少年の現実の(理念的な) 魂を賛美してもいる。愛する者と愛される者 (この二者をまだ区別する必要があるだろうか) の双方におけるナルシスティックな愛は、他性を完全に知ることとまったく一致する。わたしはこの愛を、非人称的なナルシシズムと名づける。なぜならば、主体がみるような、他者のなかで反映された自己とは、近代的な個人主義概念の中心にある、比類なき人格性とは別のものだからである。国民的、民族的、人種的アイデンティティは、人格的な自我に類似している。そこにおいてアイデンティティは、歴史的に区分され、本質的に対立的なものとして規定されてしまう。キリスト教的信仰と同性愛とは、集団的アイデンティティの二つの例であるが、実際には一枚岩的なアイデンティティ主義者によって形成されているのではない。しかし、世界中のあらゆるところに多様な表現形態をもって散らばっているにもかかわらず、彼らが閉じこめられる想像的な空間は、同様に想像的であるが強力で有効性のある境界をつくりあげ、彼らと本質的に異なるすべてのものを、その外部に追いだしてしまう。個人的な自我と集団的な自我は、つねに境界線を防御する準備をしていなければならない。こうした自我は、本性上差異をしっかりと固定させるものなので、自我は自身を規定し、かくして、彼らのアイデンティティの境界の外側にある差異に対して攻撃的な防御姿勢をとるべく、自身の存在の統一性をつくりだそうとする。わたしが前に論じておいた自我の誇大化とは、自己同一化の行使であり、そのなかで自我は自我自身を攻撃的なアイデンティティとして経験できる。古代ギリシア文化においても、わたしたちの文化と同じく、対立的なアイデンティティという枠をはめる事例はたくさんある。市民-奴隷、男性-女性、能動者 - 受動者、愛する者-愛される者(エラトスとエロメノス)。〔だが] プラトンの『パイドロス」は明らかに、こうした認識能力の領野を解体するものである。とくに、能動的に愛する者と受動的に愛される者との対立を、ある種の相互的な自己理解を設定することによって解体するのである。そうした自己理解において、同一性と差異性とのあいだの対立そのものが、存在を構成するカテゴリーとして無意味なものになるのだ。ソクラテスが、わたしたちにおもいおこさせるように記述したものは、わたしたちの個人的な自我の日常的な現れに心理的に先だつような、潜在的存在として再び定式化することができる。潜在的存在は、明確なアイデンティティとして図示されるものではない。それはただ自身にますます似ようとする動きのなかにある。ソクラテスの恋人たちのあいだで交わされる寛容なナルシシズムにおいて、それぞれのパートナーは他者に対して、自分が愛する者の存在の類型、すなわち彼の普遍的な単独性 (それは彼の心理的な特殊性でも、人格的な差異でもない) を反映することを要求する(ソクラテスが『アルキビアデス』の対話において、アルキビアデスに要求したように)。それは、そうした単独性を、彼自身のもっとも拡散的で、もっとも差し迫った可能性としてとらえて発展させることなのである。もしわたしたちが、この非人称的なナルシシズムによって他者と関係することができるならば、他者 (彼らの心理学的個人性)との差異とは、他者とわかちもっている同一性という、より深いもの(完全には現実化されないし、みいだされることもない) のたんなる外皮にすぎないものになる。もちろん、それぞれの主体がもつ存在の種類は、誰にでも反射されるわけではない。だが、国民的にも民族的にも人種的にもジェンダー的にも境界づけられないある種の単独性の集団に属するという経験は、わたしが『ホモズ』〔本書「訳者解説」参照〕のなかで、脅威なしに同一性を補充させるものであると述べた、差異の存在論的な身分そのものをはっきりとおもいおこさせるものである。わたしがここで素描してきた関係性は、結局のところ、わたしたちの文化において支配的な関係性の、革命的な様式転倒へといたるものである。わたしたちの文化は、わたしたちを統治する悪の力を強大なものにするが、わたしたちがこの関係性の領域にとどまりつづけるかぎり、誰もがその共犯者になってしまう。ソクラテス的な愛のヴァージョンでは、わたしたちが潜在的な理想の存在者に到達するための翼は、たえずうるおされなければならない。プラトンイデア世界に固有なもの「天界の向こう側」に固定される不変的なものとは異なり、ソクラテスイデア性(わたしが普遍的な潜在性と同等にみなしているもの) は、観照されるというよりも、はぐくまれるものである。それは、対話 本質的に終わらない対話をつうじてはぐくまれる。というのも、わたしたちはつねに、他者のなかで「再発見する」ことを喜びと感じる存在に、近づいたり離れたりするからである。ソクラテスが都市の出会いの場所から離れたがらないのは何ら驚くべきことではない。彼は、わたしたちと同じように、アイディアを交換したり試したりするという、自由な目的のために対話をしたかっただけではない。彼は、潜在的な存在へと導く唯一のものである言語を使い理解するという、人間独自の能力とみなされるものの訓練をなすために対話を必要とするのである。そうした潜在的存在は、対話をつうじて、しだいにそのもの自身になっていく。フーコーが古代において着目した禁欲主義的倫理とは、おそらくはソクラテスによって、もっとも特別に実践されているものである。ソクラテスは、性の誘惑者としての自分の役割においてアルキビアデスを激高させただけではない。彼は、愛に献身的な人生と哲学的な議論に生涯没頭することは同じであることを――あるいは、無味乾燥でないいい方をすれば、対話を精神的に流体化することへの没頭と同じだということを示したのである。

pp.159-160

わたしには、ベルサーニは復讐でないような欲望の形式を想像したいようにみえる。最初の悲嘆をよぶ喪失は、自己性を守ることにより、暴力を必然的なものにしてしまう(「盾は武器なのか」というオーデン〔英国の詩人〕の問いに対するベルサーニの答えは「イエス」であるだろう)。わたしたちは、セックスを個人的なものととらえないことを学ぶべきだったのである。

pp.200-202

他者を知りたいという主体の望みは、関係性の強い渇望であるというよりも、むしろフィリップスが母と子どもの関係について記したように、「何だかわからない仕方で発達してしまう可能性に対する防御」[186頁] とみなされるべきである。非人称的なナルシシズムの基本的な前提は、他者の可能的自己を愛することとは、自己愛のひとつの形式であり、この親密性におけるパートナーは、すでにある種の存在を共有していると認識することにある(愛により知ることの共有)。「自我同一性の共謀」[191頁]に支配されるのではなく、わたしたちの (欲求や破壊の投影には支えられない)世界内存在の一般化された認識となるものに導かれるならば、「わたしたちの生は、どれほどよりよいものになりうるか」という問いに、疑念などありえようか。フィリップスの最後の文章は、それ自身、彼が提起した問いに対する適切な解答以上のものである。「わたしが外部にもっているすべてのものが、内部にあるものと巧くやっていけるのか」を問うソクラテスを引用〔192頁〕しながら、彼はそれを「所有とはまったくかかわらない」ことだと正しく結論づけている。こういった「巧くやっていくこと」の政治的な結果は莫大なものだろう。だが、それが正確にどうやったら実現するのかについて、誠実にいえば、ここできちんと述べることは無理である。すでに論じたことだが、第3章であつかったような残虐行為に対して、こういった残虐さを可能にするだけでなく避けがたいものにするような関係性の異常に向けられた、直接的に提示可能な政治的解決などは、そういうものがあれば確かに望ましいとしても、〔現実には存在しないだろう。そうした異常からの治癒は、差異を文化的にどのようにとらえるように訓練されてきたのかを検討しなおすことと、破壊的で自己壊滅的な暴力という否定しがたい興奮への禁欲的な抵抗との双方を必要とするのである (具体的なステップはいくつか存在する。わたしたちがいかに対話を構築するのか――たとえば、分析的な対話の内部において―を検討しなおすこと。子どもが、世界を家族の「外部」として、つまりそこから子どもを「守る」べき何かとして教えこんだりしないように、教育や文化の制度を組織化しなおすこと)。フィリップスが論じるように、自己性のカーいかなる場合でも、それを所有していると想定することが幻想なのだが―――の喪失という、喜ぶべき本性をうけいれることが困難だととらえられるのは、確かに奇妙なことである。だがもしも、世界との協調や、世界と「巧くやっていくこと」よりも、わたしたちがそこに住む世界との対立を望んでしまうことを、人間存在のなかでもっとも深く本質的であるような「誤謬」なのだと自覚するならば――わたしはそうすべきだとおもうのだが――それは自然なことであるのかもしれない。

訳者あとがき/檜垣立哉

pp.217-219

第1章では、セックスなしにという契約のもとでの二者関係の親密性が、そこでの関係の非対称性を突き崩すようにきわだたせられていた。第2章で問題になるのは、まさにセックスそのものの快楽主義的探求のなかで、それを突き抜けてみいだされる親密性なのである。快楽のエクスタシーとは、そもそも自己に関わる事柄なのか、他者に関連するものなのか。あるいはエクスタシー自身が、自己の他者化を示しているのか。はたまたベルサーニがベアバッカーとかさねあわせるキリスト教神秘主義者が述べるように、それはそもそも神や異世界と関連する自己解脱的なものなのか。これらは難しい問いである。一般的にいって、快楽が単純な自己愛や自己感の拡張に付随するのをみてとることは容易であるが、同時に快楽の追求がそのままマゾヒスティックな自己破壊に向かい、苦痛である快楽と同一視されることも事実だからだ。このことは、とりたててフロイト的なマゾヒズムの位置づけや、成長段階におけるその役割などを主題化せずとも自明のことである。だがこれを、第1章の議論とかみあわせるならば、さまざまな問いが浮かんでくる。第1章の二者関係においては、セックスなしの二者が、どこにも辿りつかない愛を抱えながら、非人称的な関係にいたることがとりだされていた。それに対して、ここではむしろ、常識的な性愛を越えたゲイの過剰なセックスにおいて、死への欲動に向かう究極的な自己解体の快楽が主題化される。もちろんここで、セックスの不在と過剰とはそもそも同じことではないかと述べることもできるだろう。ベルサーニが、ゲイやクィアという同性愛の文化やその位置づけに最初から関心があったことも確かである。ゲイ集団の自己アイデンティティ化に対する危険、ゲイ集団が容易に軍事的メタファーを利用してしまう右傾性、これらに対するベルサーニの率直な見解が吐露されていることも関心をひく。だがベルサーニは、クィアのアカデミックな議論のなかで排除されがちなゲイのセックス、とりわけそのなかで危険に充ちたベアバッキングという行為こそをひきたてるのである。それは、自らことさらにHIVに感染し、身を滅ぼすことを厭わない、不毛きわまりない行為である。そしてそのなかで、もっともマゾヒスティックな役割を演じる者は、自己に注ぎこまれる精液に含まれたHIVウイルスの履歴に、ゲイの集団の軌跡をみいだそうとする。それは顔をみたこともなく、またすでに死んでしまった多くのベアバッカーたちの生を継承するものなのである。こうしたベアバッキングは、一面では性愛に関わらないようにみえるキリスト教神秘主義者たちの自己投棄的行為、自己を滅ぼし神に合一化するという行為ときわめて類似していると描かれる。彼らはともに、個人としての自己を捨て、直接的な死を避けることなく、より非人称的な場面に拡がっていく者たちであるからだ。通常ではとても耐えがたい苦痛のなかで自己が消滅していくこと、ここにベルサーニは「非人称的なナルシシズム」の固有の倫理をみいだしていく。エクスタシーが、性的な絶頂感という意味をもつと同時に、そもそもek-staseであるかぎり、外-立し、自分を逸脱していく存在をさす言葉でもあることは改めて述べるまでもない。それ自身が、人間存在 (実存= ex-sistence) という単語にかさなるように、あらゆる人間存在は、自らの外にでて、他に向かうことによって自己なのである。それを念頭におけば、ベルサーニが記述することは、とりたてて奇矯なことでもない。それはひとつの極限的な事例をとりだすことによって、あらゆる存在者がわかちもっている事態を明確化するものでもある。

訳者解説/宮澤由歌

pp.240-250

本作は全編を通じて、ベルサーニの議論が、批評の枠に留まることなく彼自身の哲学を展開する点に特色がある。その論考は、極めて緻密であるとか、説得的であるというより、むしろ荒々しいがゆえに力強い勢いで繰り広げられる。本書は、第1章や第3章に見られるような文学解釈の研究書としての価値以上に、ベルサーニの長年にわたる批評業の先に広がった思想地図をわれわれ読者に提示した点で意義深いといえる。ここからは本書の内容に踏み込み、これまでのベルサーニの議論と本書をつなぐいくつかの点を挙げていこう。

ベルサーニは、本書で論じたことを「人間の主体が心理学的な主体以上のものでありうることを示すひとつの方法」[194頁] と指し示す。心理学的な主体とは、ベルサーニのことばを用いていいかえれば、人格的に尊重され、個人として強固にされた主体のことである。また、精神分析や心理学的な自己愛は、心理学的な主体がもつ自己性の力を増幅させると考えられる。自己性が、暴力を生じさせるものとして取り扱われていることは、本書を一読すれば明らかであろう。第3章で論じられたように、暴力的な力である悪の力は、愛の力と一元化しうるものなのかもしれない。その一方で、ベルサーニは「愛の力が世界を救えるとか、悪のカを征服できると述べつづける偽善的な連中のお説教と、気味のわるい仕方で共鳴してしまう」[128頁]と述べ、愛の力を道徳的に位置づけることを危険視しもする。ベルサーニは、自己性で強固にされた主体や自我が、暴力的な仕方で他者に接触しようとするのではなく、愛や慈善を発揮することこそ大切だと結論づけたいのではない。そこで、冒頭に引用したベルサーニのことばに戻ってみよう。本書で読者に向けて示されるのは、暴力的な自己性を肥大化させることなしに、主体が存在する可能性の模索過程である。本書の構成のなかで、第1章は難解なレトリックを絡めたテーマが提議されている。実際に、第1章で紹介される二つの物語の解説と批判点は、第2章、第3章と言説が進むにしたがって明確になるところが大きい。そこで、第1章の解説は後回しにして、第2章の内容からみていこう。

第2章の冒頭では、一九八七年に「直腸は墓場か」でセンセーショナルに提起されたベルサーニクィア的態度が反復される。ベルサーニはある種の同性愛者たちに対して異議を申し立てる。それは、ゲイの過激な性行動やエイズに関する政治問題を語りたがらない知識人たちに対するものである。ゲイのマイノリティ文化を彼らの性行動と切り離してアイデンティティ化しようとする一部の活動家たちに対し、ベルサーニは本書の二〇年以上前から警告を発してきた。フィリップスも引用する「セックスにはおおきな秘密がある。ほとんど誰もそれが好きではない」がベルサーニによって書かれるとき、好きではない「ほとんど」の人々とは、ミシェル・フーコーが指摘してきたように欲望を含めたセクシュアリティの支配に関わってきた異性愛者のみを指すのではない。上記のように、性的快楽や性的欲望に対して黙秘する一部のゲイたちにもあてはまるのである。そこでベルサーニは、普遍的な人間にとっての性的快楽や性的欲望とは何かを解釈しようと試みる。第3章の前半で、ベルサーニは、フーコーの欲望への視点を「欲望について意図化する観点へと従属させてしまった」とし、「近代的主体の欲望の本性や内容というよりも、主体の欲望 (とくに性的な欲望)こそがその者の存在の鍵であるという (権力に促された)見地に主体が従属していること」の重要視を批判し、精神分析、とくにフロイトの理論に向き合っていく。「フロイト的身体』で論じられたマゾヒズムの重要性や、享楽概念に内在する性的快楽のしくみは、本書の第3章でよりその内実に踏み込んだ形で紹介されている。

欲望に関する思弁的な解釈が精神分析理論を参考に進む一方で、乱交の実践の必要性は、「直腸は墓場か」においてすでに示されていた。そこには、ゲイをはじめとするセクシュアル・マイノリティの人々が、政府の広告とそれに洗脳された人々によって迫害される事態に対する危機感がある。ベルサーニが抵抗のために乱交を推奨することにも道理がある。彼の理論の出発点は、差別やスティグマ化によって生を脅かされる人々の生存のための道筋を見いだすことにある。その仕方は、アメリカで興隆した多文化主義と共鳴する仕方でゲイのアイデンティティをかかげることではない。むしろ普通的な人間全体が有する性への抑圧や嫌悪感に対して、ゲイの性行為がもつポテンシャルを引きだすことにある。乱交という過激な性行為と、エイズという殺人的ウイルスは、一般的に人々が厭悪する対象であるという点では一致する。本書の第2章で両者は肯定的に語られるが、それは、ベルサーニがゲイの性行為に何らかのポテンシャルを見いだすからである。その特徴は、『ホモズ』の4章ですでに論じられているように、「性行為から関係の必要性をどれもこれも除去する」要素にある。『ホモズ』の4章で述べられるのは、性行為において他者が不要であることの告発であり、本書の用語を用いれば、人格間の関係にかんする幻想をさらけだすことの宣告である。『ホモズ』4章におけるジッドとプルースト、そしてとりわけシュネの「弾儀」の解釈では、ゲイの性行為はお互いを理解するためのものではまったくなく、むしろ性行為に没頭する者がそれぞれ「互いとのセックスの交わりではなく世界との交わりへと」関係させられるものとみなされる。そこでの他者は、「権利と義務の主体である人格として尊重も侵犯も受けず、ナルシシズム的快楽のための無意味かつもうひとつの機会として誘惑されるだけ」で、そのため、自分や他者を知るといった目的は達成しえないのである。このような同性愛の性行為の関係性は、一見すると独我論的で特殊である。ラディカル・フェミニズムが明らかにしてきたように、一般的な男女の性行為が、支配と被支配の暴力的な幻想を基盤にするとすれば、他方でベルサーニが見る同性愛の性行為は、他者に対する侵害でなく(もちろん、尊重や愛情でもなく)、むしろ自我を危険に晒すものである。同性愛の性行為においては(ベルサーニが本書の第2章で明らかにしたように)、個体であるところの主体の自我は貶められ、解体させられる危険をはらんでいる。ベルサーニが第1章においてIt=非人称性と名ざしたものが、ここで表面化する。主体の内部で自我が解体させられたあとではじめて見えてくる「余白」(ベルサーニが引用したギヨーム・デュスタンのことば)である。余白は、存在者すべてが分かちもつ共有の性質、すなわち「すべての人に開かれ」る性質をもつものであると思われる。だがベルサーニは、自我が実際に解体されてしまうことに対して暗に否定的である。自我が壊されてしまうことなしに、デュスタンのいう「余白」を信頼するための仕方として、ベルサーニが第3章でとりあげるのは、「パイドロス」の対話から見る言語でのやりとりである。

第3章の後半でソクラテスパイドロスの対話が持ちだされるのは、まさに以上のような要請にしたがったものだといえる。本書の中心概念である非人称的なナルシシズムは、ソクラテスパイドロスのあいだで交わされる対話のなかで名づけられる。統制されるセクシュアリティの物語のからくりを明らかにしたフーコーを基盤とし、ここでは新たな性愛の関係性が検証されている(ベルサーニフーコーが「新たな関係の様式」と呼んだものの模索を目論んでいる)。そこでは、第4章でフィリップスが指摘するように、言語の存在が不可欠である。言語にかんするフィリップスの指摘は、ベルサーニのひとつの目標をより鮮明にするものである。プラトンパイドロスのあいだにみられる対話は、フィリップスによって、「ある程度は、母や父が子どもに対してなしうるものとしても記述可能ではないか」と仮定される。フィリップスが導入する母と乳児の関係性は、乳児の潜在的存在をめぐって、愛のなかで展開される。言語は「何だかわからない仕方で発達してしまう可能性に対する防御」[186頁]のための道具として用いられる。フィリップスが指摘するように、そのような愛ですら、自我に対するフラストレーションを有する。それを踏まえた上で、フィリップスは、非人格的ナルシシズムを「いずれにせよ、暴力に訴えずにフラストレーションに耐える訓練」[179頁]と形容し、その肯定的な側面を指摘している。くわえて、フィリップス自身も明言しているように、「愛とはつねに境界侵犯である」[149頁]のならば、非人格的ナルシシズムも境界侵犯であるということができるだろう。問題は、何と何のあいだの境界を侵害するものであるか、ということである。フィリップスは次のように言う。「大切ではあるが恐るべきものでもある自己イメージから、それを経験する以前にはけっしてもちえないような自己イメージへ向かう、そうした境界線であるかのようだ」[182頁]それは、過去に存在する主体の記憶と未来における可能的で知り得ない自己との境界であり、まさに現在のわたしが瞬間瞬間において誰かとともに(あるいは、ベルサーニがクリストファー・ボラスのことばを用いて「共存在」と名さした仕方で)通過する境界ということができる。その際、「恥ずかしさ」という感情が現れることをフィリップスは指摘する。境界を侵害する (侵害される)ときに生じる「本当に実在している誰かの最後の一息」[188頁]としての恥ずかしさは、わたしたちの未来においてわたしがわたしだけで存在しないことの証左となってくれる。なぜならば、「大切ではある」自己イメージの記憶の侵害や、新たな自己イメージの「生成」は、それまでの自己ひとりでは原理的になしえないからだ。知り得ない未来として表象されるものは、愛の相互的な関係においては共有物として存在するが、それを我有化や独占しようとすることが、自己性を強固に肥大化し、暴力をうむのである。

第1章の冒頭で引用されたフィリップスの命題、「精神分析は、セックスしないと決めた二人が、たがいに何をはなすことが可能なのかを問うものである」は、非常に禁欲的な精神分析の状況を説明するものである。映画『親密すぎるうちあけ話』において、最後のシーンで主役の二人が抱き合うイメージを映し出さないことは、ベルサーニにとっては偶然の出来事ではない。すでに引用したように、一般的にセックスが暴力的な出来事の模倣や反復であるとするならば、禁欲的であることによって対話を遂行していく状況は、非人称的なナルシシズムをうみだす格好の場であるといえる。ベルサーニが、第1章でふたつの物語における対話にかんして示唆していた点を指摘して、本解説の結語としたい。ベルサーニは、『親密すぎるうちあけ話』のルコント監督が映画の製作にあたって『ジャングルのけもの』にヒントを得たのだろうと指摘したのち、フランス南部での登場人物の会話の再開に関して次のように述べる。「そこ [分析的な対話のなか]での享楽は、具有化された言語をつうじて、他者の主体性を与えたりうけとめたりする」[59頁]。会話のなかで得られる「暴力的でない享楽」、「禁欲的な快楽」は、可能的自己の具有化を果たす言語装置のなかで生じる。そして、引用部での「他者の主体性」とは、第3章の非人格的ナルシシズムの説明のなかでベルサーニが述べているように、「彼ら自身の秘密であり、かつ他者についての真実」[141頁]である。別の部分を引用していいかえれば、「存在としての知であり、あらゆる特定の存在の根拠に存在するすべてを含んだ存在としての知」である。「知としての無意議」と表現されることからもわかるとおり、精神分析的な自我においては、この知は無意識的なものであり、可能的なものとしてしかあらわれえない。だからこそベルサーニは、精神分析のそなえる分析的な対話の独自なものとして「ただの可能性でしかない可能性や、たんに可能性としてのみ存在する振る舞いや思考でさえもうけいれること」[58頁]に価値を置くのである。ここでの「真実」や「存在としての知」を知ることこそが、ベルサーニにとっての愛であり、非人格的ナルシシズムである。ベルサーニは次のようにも述べる。「愛する者と愛される者の双方におけるナルシスティックな愛は、他性を完全に知ることとまったく一致する」[141頁]。フロイトの「無意識」 論文を参考にすれば、他性は、心理学的な主体や自我にとって「外部にもっているもの」にほかならない。本書では、「わたしが外部にもっているすべてのものが、内部にあるものと巧くやっていけるのか」[192頁] という問いが開かれ、結末にいたる。ソクラテスによるこの問いが、倫理的な判断をおこなう主体を要請していることは自明のことだろう。また、心理学的な主体以上のものでありうる人間の主体が存在するのだとすれば、それは、この問いの意味を理解し、暴力的でない関係性のあり方を模索しつづけていく主体であることに間違いはない。