痛見心地

思ったこと感じたこと、おふざけ、メモ、たまに感傷的になったりと、ここは「しもうさ」の自由な文手箱です

メモ:丸山眞夫『日本の思想』

初版1961年。読んだのは1997年第67刷

岩波書店から刊行された一冊です

 

図書館で借りたものの、返却期間内には読み終えられずに半端な読書になってしまった本です。もはや古典に属する丸山氏の代表作です。これが数ヶ月前ブックオフの100円コーナーにあるのを見て…その時の私がどういう表情を浮かべたかはよく覚えていませんが、なんだか「すごい気持ち」になったことだけはざらついた感触として確かに残ってます

 

以下個人的ベストを引用

と言っても、全部引用したいくらいの内容です

 

pp.11-13

 伝統思想がいかに日本の近代化、あるいは現代化と共に影がうすくなったとしても、それは前述のように私達の生活感情や意識の奥底に深く潜入している。近代日本人の意識や発想がハイカラな外装のかげにどんなに深く無常感や「もののあわれ」や固有信仰の幽冥観や儒教的倫理やによって規定されているかは、すでに多くの文学者や歴史家によって指摘されて来た。むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルペったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入って来たいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。それは直接には歴史的発展という考え方にたいする、あるいはヨリ正確には発展思想の日本への移植形態にたいする一貫した拒否の態度と結びついているが、すくなくも日本の、また日本人の精神生活における思想の「継起」のバターンに関するかぎり、彼の命題はある核心をついている。新たなもの、本来異質的なるのまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。

 これは特に国家的、政治的危機の場合にいちじるしい。日本社会あるいは個人の内面生活における「伝統」への思想的復帰は、いってみれば、人間がびっくりした時に長く使用しない国靴りが急に口から飛び出すような形でしばしば行われる。その一秒前まで普通に使っていた言葉とまったく内的な関連なしに、突如として「噴出」するのである。(近代史の思想的事件として、たとえば維新の際の廃仏殿釈、明治十四年前後の儒教復活、昭和十年の天皇機関説問題など。)個人の場合でも、教養が「西欧化」した思想家の日本主義への転向は、蘇峰にしても樗牛にしても横光にしても、現われ方ははなはだ突然変異的だが、それはいずれもこれまで彼等の内部にまったく存しなかったものへの飛躍(回心)ではなかった。ただ「つい昨日まで」と続かないだけのことである。高村光太郎は『暗愚小伝』のなかで、大平洋戦争勃発の報に接したときの、こうした「思い出」の噴出を真撃にうたっている*。(戦後かれはふたたびロダンの「思い出」にかえった。)

 過去に「摂取」したるのの中の何を「思い出」すかはその人間のパーソナリティ、教養目録、世代によって異ってくる。万葉、西行神皇正統記吉田松陰岡倉天心フィヒテ葉隠道元文天祥、バスカル等々々、これまでの思想的ストックは豊富だから素材に事欠くことはない。そうして舞台が一転すると、今度はトルストイ、啄木、資本論魯迅等々があらためて「思い出」されることになる。何かの時代の思想もしくは生涯のある時期の観念と自己を合一化する仕方は、はたから見るときわめて恋意的に見えるけれども、当人もしくは当時代にとっては、本来無時間的にいつもどこかに在ったものを配置転換して陽の当る場所にとり出して来るだけのことであるから、それはその都度日本の「本然の姿」や自己の「本来の面目」に還るものとして意識され、誠心誠意行われているのである。

 * ………昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/父が母がそこに居た。/少年の日の家の雲霧が/部屋一ばいに立ちこめた。/私の耳は祖先の声でみたされ、/陸下が、陸下がと/あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。/………

 

pp.16-17

 ヨーロッパ的伝統への必死の抵抗としてうまれたものが、わが国に移植されると存外古くからの生活感情にすっぽり照応するために本来の社会的意味が変化するということもよくおこる。たとえばニーチェの反語やオスカー・ワイルドの逆説は、キリスト教——これこそヨーロッパの最も頑強な「公式」だ——の長年酒養した生(レーベン)の積極的肯定の考え方が普遍化している社会でこそ、そこに現実とのはげしい緊張感がうまれるが、日本のように生活のなかに無常感や「うき世」観のような形の逃避意識があると、ああしたシニシズムや逆説は、むしろ実生活上の感覚と適合し、ニヒリズムが現実への反逆よりもむしろ順応として機能することが少くない。ここでは逆説が逆説として作用せず、アンチテーゼがテーゼとして受けとられ愛玩される。たとえば世界は不条理だという命題は、世はままならぬもの、という形で庶民の昔からの常識になっている。

 逆説や反語を得意とする評論家がマルクス主義の「公式」を眼のかたきにするのは、むろん政治的(もしくは反政治的)姿勢にもよるが、それだけではなくて、キリスト教の伝統のないところでは、そこにしかヨーロッパ的公式の対応物がないという事情もひそんでいるように思われる。こうして「マルクス主義的」知識層にたいするスマートな逆説家と庶民の「伝統的」実感——もしくはそれに寝そべるマス・コミとの奇妙な同盟が成立し、「進歩的知識人」は両者にはさみうちになって孤立するという事態がうまれるわけである。日本のマルクス主義における後述する「理論信仰」がいよいよこの事態をはなはだしくしているのであるが、すくなくも、そうした「反逆」的姿勢が現実にはしばしば大勢順応として機能するのは政治的条件を一応べつとして、右のような日本の精神的状況と深くかかわっている。

 

pp.19-20

宣長が、道とか自然とか性とかいうカテゴリーの一切の抽象化、規範化をからごころとして斥け、あらゆる言あげを排して感覚的事実そのままに即こうとしたことで、そのために彼の批判はイデオロギー暴露ではありえても、一定の原理的立場からするイデオロギー批判には本来なりえなかった。儒者が、その教えの現実的妥当性を吟味しないという規範信仰の盲点を衝いたのは正しいが、そのあげく、一切の論理化=抽象化をしりぞけ、規範的思考が日本に存在しなかったのは「教え」の必要がないほど事実がよかった証拠だといって、現実と規範との緊張関係の意味自体を否認した。そのために、そこからでて来るものは一方では生まれついたままの感性の尊重と、他方では既成の支配体制への受動的追随となり、結局こうした二重の意味での「ありのままなる」現実肯定でしかなかった。

 

pp.27-28

B・ラッセルはかつて、中国文化にたいするヨーロッパ文化の優越は、ダンテ、 シェイクスピアゲーテ孔子老子にたいして勝を占めたという事実に基づくのではなく、むしろ、平均的にいって、一人のヨーロッパ人が、一人の中国人を殺すのは、その逆の場合よりも容易だという、はるかにブルータルな事実に基づくのだ、と辛らつな言を吐いたが、東洋にとってのヨーロッパ近代はもっとも切実かつ具体的には、帝国主義と結びついた機械と技術を意味していた。ただわが国の場合は、中国の思想的文化的伝統にたいする「伝統的」コンプレックスが、対西洋コンプレックスに接続したために、東洋対西洋の問題と、東洋における「近代」の チャンピオンとしての日本という問題とが思想的に交錯し、それが後に日本が帝国主義的発展をとげるほど虚偽意識的性格を強め、安易な東西「綜合」観が発酵するにいたったのである。

 

pp. 45-47

ともかく、条約改正を有力なモチーフとする制度的「近代化」は社会的バリケードの抵抗が少なかっただけに、国家機構をはじめとする社会各分野にほとんど無人の野を行くように進展した。ただし絶対主義的集中が前述のように権力のトップ・レヴェルにおいて「多頭一身の怪物」を現出したことと対応して、社会的平準化も、最底辺において村落共同体の前にたちどまった。むしろその両極の中間地帯におけるスピーディな「近代化」は制度的にもイデオロギー的にもこの頂点と底辺の両極における「前近代性」の温存と利用によって可能となったのである。その際底辺の共同体的構造を維持したままこれを天皇制官僚機構にリンクさせる機能を法的に可能にしたのが山県の推進した地方「自治制」であり、その社会的媒介となったのがこの共同体を基礎とする地主=名望家支配であり、意識的にその結合をイデオロギー化したのがいわゆる「家族国家」観にほかならない。

 この同族的(むろん擬制を含んだ)紐帯と祭記の共同と、「隣保共助の旧慣」とによって成立つ部落共同体は、その内部で個人の析出を許さず、決断主体の明確化や利害の露わな対決を回避する情緒的直接的=結合態である点、また「固有信仰」の伝統の発源地である点、権力(とくに入会や水利の統制を通じてあらわれる)と恩情(親方子方関係) の即自的統一である点で、伝統的人間関係の「模範」であり、「國體」の最終の「細胞」をなして来た。それは頂点の「國體」と対応して超モダンな「全体主義」も、話合いの「民主主義」も和気あいあいの「平和主義」も一切のイデオロギーが本来そこに包摂され、それゆえに一切の「抽象的理論」の呪縛から解放されて「一如」の世界に抱かれる場所である*。したがって「近代化」にともなう分裂・対立など政治的状況を発生させる要因が、頂点の「闘置」と同様に底辺の「春風和気子ヲ育シ孫ヲ長スルノ地」(山県の言)たる「自治体」内部に溶透するのをあらゆる方法で防遏(ぼうあつ)するのが、明治から昭和まで一貫した支配層の配慮であった。

*「かうした家の中にあつては、家長を中心として一家が同体である。其処には私有財産もなく、共働、共有だ。家の上のものを尊敬するところに、上のものも下のものを労らなければならない。子供を育てるためには、一家の中心にある人は労作をしなければならない。一家に病人があればその人は誰より多く消費するが、決して本の人は不平を云はないであらう。……ここでは理論でなしに現実が支配してゐる。かうした家族主義の特質は、今日封建的な形骸を破つて、新しく我々に受けとられなければならないのではなからうか。共産主義者が夢みた様な社会は我々の足下にあつたのである。」(小林杜人編『転向者の思想と生活』一五頁)。

 

pp.53-55

 日本の近代文学は「いえ」的同化と「官僚的機構化」という日本の「近代」を推進した二つの巨大な力に挟撃されながら自我のリアリティを個もうとする懸命な摸索から出発した。しかもここでは、(ⅰ)感覚的な二ュアンスを表現する言葉をきわめて豊富にもつ反面、論理的な、また普遍概念をあらわす表現にはきわめて乏しい国語の性格、(ⅱ)右と関連して四季自然に自らの感情を託し、あるいは立居振舞を精細に観察し、微妙にゆれ動く「心持」を極度に洗練された文体で形象化する日本文学の伝統、(ⅲ)リアリズムが勧善懲悪主義のアンチテーゼとしてだけ生まれ、合理精神(古典主義)や自然科学精神を前提に持たなかったこと、したがってそれは国学的な事実の絶対化と直接感覚への密着の伝統に容易に接続し自我意識の内部で規範感覚が欲望や好悪感情から鋭く分離しないこと、(ⅳ)文学者が(曝外のような例は別として)官僚制の階梯からの脱落者または直接的環境(家と郷土)からの遁走者であるか、さもなくば、政治運動への挫折感を補完するために文学に入っためのが少くなく、いずれにしても日本帝国の「正常」な臣民ルートからはずれた「余計者」的存在として自他ともに認めていたこと——などの事情によって、制度的近代化と縁がうすくなり、それだけに意識的な立場を超えて「伝統的」な心情なり、美感なりに著しく傾斜せざるをえなかった。

 そこでは制度にたいする反搬(=反官僚的気分)は抽象性と概念性にたいする生理的な嫌悪と分ちがたく結ばれ、また、前述した「成上り社会」での地位と名誉にたいする反情と軽蔑(ときにはコンプレックス)に歴胎する反俗物主義は、一種の仏教的な厭世観に裏づけられて、俗世=現象の世界=概念の世界=規範(法則)の世界という等式を生み、ますます合理的思考、法則的思考への反搬を「伝統化」した。しかもヨーロッバのロマン主義者のように自然科学的知性そのものを真向から否定するには、近代日本全体があまりに自然科学と技術の成果に依存しており、またその確実性を疑うほどの精神の強烈さ(あるいは頑固さ)もわが国の文学者は持ち合わせない。こうして一方の極には否定すべからざる自然科学の領域と、他方の極には感覚的に触れられる狭い日常的現実と、この両極だけが確実な世界として残される。文学的実感は、この後者の狭い日常的成感覚の世界においてか、さもなければ絶対的な自我が時空を超えて、瞬間的にきらめく真実の光を「自由」な直観で摘むときにだけに満足される。その中間に介在する「社会」という世界は本来あいまいで、どうにでも解釈がつき、しかる所詮はうつろい行く現象にすぎない。究極の選択は 2×2=4 か、それとも文体の問題かどちらかに帰着する! (小林秀雄『Xへの手紙』)

 

pp.55-59

 マルクス主義が社会科学を一手に代表したという事は後で述べるような悲劇の因をなしたけれども、そこにはそれなりの必然性があった。第一に日本の知識世界はこれによって初めて社会的な現実を、政治とか法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づけて綜合的に考察する方法を学び、また歴史について資料による個別的な事実の確定、あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的導因を追求するという課題を学んだ。こういう綜合社会科学や構造的な歴史学の観点は、コント、ルソー、スペンサー、バックルなどの移植された明治初期にはあったけれども、一つには天皇制の統合過程によって、また二つにはあたかもヨーロッバでは十九世紀以降、社会科学の個別化専門化が急速に進行しアカデミーの各科がそうした初めから専門化された学問形態を受け入れる一方、ジャーナリズムはますます大衆化したという事情の為に、知的世界からいつか失われてしまったのである。マルクス主義の一つの大きな学問的魅力はここにあった。

 第二に右のことと関連して、マルクス主義はいかなる科学的研究も完全に無前提ではあり得ない事、自ら意識すると否とを問わず、科学者は一定の価値の選択の上に立って知的操作を進めて行くものである事を明かにした。これまで哲学に於てのみ、しかし甚だ観念的に意識されていた学問と思想との切り離し得ない関係を、マルクス主義は「党派性」というドラスチックな形態ですべての科学者につきつけた。しかもその思想は世界をいろいろと解釈するのではな

くて、世界を変革することを自己の必然的な任務としていた。直接的な所与としての現実から認識主体をひとたび隔離し、これと鋭い緊張関係に立つことによって世界を論理的に再構成すればこそ、理論が現実を動かすテコとなるという、これまた凡そデカルト、ベーコン以来近代的知性に当然内在しているはずの論理は、わが国ではマルクス主義によって初めて大規模によび醒されたといっても過言ではない。さらにキリスト教の伝統を持たなかったわが では、思想というものがたんに書斎の精神的享受の対象ではなく、そこには人間の人格的責任が賭けられているということをやはり社会的規模に於て教えたのはマルクス主義であった。たとえコンミュニストの大量転向が、前述したように思考様式からすれば、多くは伝統的な形でおこなわれたにしても、思想的転向がともかく良心のいたみとして、いろいろな形で(たとえマイナスの形ででも)残ったということは、少くるこれまでの「思想」には見られなかったことである。マルクス主義が日本の知識人の内面にきざみつけた深い刻印を単にその他もろもろのハイカラな思想に対すると同じに、日本人の新しがりや知的好奇心に帰するのが、どんなに皮相な見解であるかはこれだけでも明らかだろう。

 しかしながら、マルクス主義が日本でこのように巨大な思想史的意義をもっているということ自体にまた悲劇と不幸の因があった。近世合理主義の論理とキリスト教の良心と近代科学の実験操作の精神と——現代西欧思想の伝統でありマルクス主義にも陰に陽に前提されているこの三者の任務をはたしてどのような世界観が一手に兼ねて実現できようか。日本のマルクス主義がその重荷にたえかねて自家中毒をおこしたとしても、怪しむには足りないだろう。このことを逆にいうならば、まず第一に、およそ理論的なもの、概念的なもの、抽象的なものが日本的な感性からうける抵抗と反擬とをマルクス主義は一手に引受ける結果となった。第二に必ずしもマルクス主義者に限らず一般の哲学者、社会科学者、思想家にも多かれ少かれ共通し、むしろ専門家以外の広い読者層あるいは政治家、実業家、軍人、ジャーナリスト等が「教養」として、哲学・社会科学を重要視する際によりはなはだしい形であらわれるところの理論ないし思想の物神崇拝の傾向が、なまじマルクス主義が極めて体系的であるだけに、あたかもマルクス主義に特有な観を呈するに至った。ちょうどマルクス主義が「思想問題」を独占したように、公式主義もまたマルクス主義の専売であるかのように今日でも考えられている。その際、「公式」というるのがもつ意味や機能は殆んど反省されず、またマルクス主義以外の主義・世界観・教義などが果して日本の土壌で理解され信奉されるときはマルクス主義に劣らず公式主義的にならないかという問題はともすると看過されるのである。

 理論信仰の発生は制度の物神化と精神構造的に対応している。ちょうど近代日本が制度あるいは「メカニズム」をその創造の源泉としての精神——自由な主体が厳密な方法的自覚にたって、対象を概念的に整序し、不断の検証を通じてこれを再構成してゆく精神——からでなく、既成品としてうけとってきたこととパラレルに、ここではともすれば、現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。それによって理論や概念はフィクションとしての意味を失ってかえって一種の現実に転化してしまう。日本の大学生や知識人はいろいろな範鳴の「抽象的」な組合せによる概念操作はわかえって西洋人よりうまいと外国人教師に、皮肉を交えた驚嘆を放たせる所以である。

 しかしこうして、現実と同じ平面に並べられた理論は所詮豊鏡な現実に比べて、みすぼらしく映ずることは当然である。とくに前述のような「実感」に密着する文学者にとっては殆んど耐えがたい精神的暴力のように考えられる。公式は公式主義になることによって、それへの反撥も公式自体の蔑視としてあらわれ、実感信仰と理論信仰とが果しない悪循環をおこすのである。

 しかし第三に、理論と現実の関係においてトータルな世界観としてのマルクス主義の特有の考え方が、日本の知識人の思考様式と結合して、一層理論の物神化の傾向を充進させたことも見逃してはならない。マルクス主義は、周知のように、ミネルバの梟は夕暮れになって飛期をはじめるというヘーゲル主義、すなわち一定の歴史的現実がほぼ残りなくみずからを展開しおわった時に哲学はこれを理性的に把握し、概念にまで高めるという立場を継承しながら同時にこれを逆転させたところに成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証しになるというところに、資本制生産の全行程を理論化しょうとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった。しかしながら、こうした歴史的現実のトータルな把握という考え方が、フィクションとして理論を考える伝統の薄いわが国に定着すると、しばしば理論(ないし法則)と現実の安易な予定調和の信仰を生む素因ともなったのである。

 

またブックオフかどこかで出会った時には、再チャレンジを誓って手に取ろうと思います