痛見心地

思ったこと感じたこと、おふざけ、メモ、たまに感傷的になったりと、ここは「しもうさ」の自由な文手箱です

天使主義的なるもの

Clip OCRというアプリが非常に使い勝手が良くこれまで重宝していたのですが、少し使っていない間に管理主体がアプリの資金化に積極的になってしまったようで、このたび泣く泣く利用をやめました。利潤追求自体は正当ですので、むしろこれまで無料で利用させて貰っていたことに感謝すべきことは明らかです。ですが、サブスクライブに同意しなければ是が非でも通さんという、運営の突如の豹変ぶりに対しては、一ユーザーとして嘆息する権利があることもまた事実でしょう。とまあ、最初から横道に逸れてしまいましたが。それはさておき

 

ちょっと哲学っぽいテーマです

アドラー氏は人間と純粋な知性の存在を同一視することで起こる問題を「天使主義的誤謬」(angelistic fallacy)という言葉で表現しました

私はアドラー氏の思想や功績について門外漢ですが、これは何だかロマンチックな言い方で好きです

無学な私は天使というとサイゼリヤが浮かびますが

この言葉、日本では全く広まらなかったようで、私もネットサーフィンをしていなければ知ることのないままでした。稲垣良典さんが日本に紹介した新トマス主義者のジャック・マリタンという方が言った「天使主義的虚偽」も先のものと同じ事態を指しているようです。邦訳されたマリタン氏の著作には『三人の改革者』がありこの言葉も本書に記述されているとのことですが、手にするには何かとコストの掛かる一冊です。読んでみたいと思ったのですが今は諦めています

「天使主義的誤謬」について私が思ったことは、これは見方によってはキリスト教にとって相当危険な態度なのではないか?ということです

人間は常に自分の行動について完全な知識を持ってはいないので、そこには大なり小なり過失が伴います。完璧な人間はいないということです。そして、過失とは赦しを誘います。誰もが間違えて、誰もがそこから学ぶからです。説教をするようで気恥ずかしいですが、事実として、人は過ちを受け入れてそれを周りからも認められることによって成長を果たします。つまり赦しとは、自らの行動を完全には把握できないという人間存在の根本的な弱さを認めることです。一方、マリタン氏やアドラー氏の言う「天使主義的誤謬」に陥った論理では、人間が天使的に振る舞う主体として想定されてしまいます。これが極めて危険なのではないかと私は考えました。何故ならば、そうした世界観の中にはそもそもの過失が生まれる余地がないからです。過失がないのなら罪もまた生まれません。すると赦しの存在する根拠も連鎖的に剥奪されてしまうことになり、詰まるところは、キリスト教的な「神」の存在理由を根底から否定する結論に至ってしまうのではないか?と思えてならないのです。この誤謬に陥っている人は人間のみならず神に対しても冒涜的ということです

だから何だという話ではありますが、この「天使主義的誤謬」という言葉が、近年のアメリカで顕著な、有名人の不都合な過去(ちょっとした過去の失言や判断の過ち)を掘り出して「断罪」を求める社会的風潮へのカウンターとして持ち出されている例を目にしました。アメリカではキリスト教徒が多数派だという話を以前聞いたことがあったので、この問題を倫理ではなく論理の側面から追求してみたいと思ったのが今回やや長めの記事を書いた動機です

私が今読んでいる『悪』という本、その著者である樫山欽四郎という人は、「罪」と「悪」とは別のものだと喝破しています。言葉が違えば意味もまた然りということで、確かに当たり前ではあるのですが、論じよと迫られると途端に困るのがこの二つの区別ではないでしょうか

人間の悪とは何か、罪とは何か、赦しとは何か……重要な問題です。私は今は無心論者ですが、そんなことを考え続けていると、いつか神を信じる向きに傾いても不思議ではありません

ただ私がもしそのような精神的な生活を選ぶとすれば、もはや想像することしか叶わない、神なるものを生み出した最古の人々の計り知れない苦悩と情熱との前に跪くことになりそうです。それは、純粋な信仰とは異なるものになることでしょう