痛見心地

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解死人という制度について

 最近はまた暑い日が続きますね

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 中世日本のお時間です

(上の絵は江戸時代のもので全然関係ないです)

 社会的なトラブルが発生した際、殺伐の世を生き抜く彼等はそれをどう解決していたのか

 今回は割合マイナーっぽい「解死人」という制度の話をします

 中世日本を語る上で外せない特徴は、とにかく「自他の生命観が軽いこと」です。それは何故なのか、まずこの前置きから進めていこうと思います

 

 中世日本は農業技術が未熟で生産基盤が脆弱でした。加えて、山野河海など「所有のはっきりしない領域」というものが各地に点在していました。奪い合いが慢性的に発生する負の温床があったわけです。更には「武士」の存在。些細な事でも街でトラブルが発生する時代、これは現代もそう変わらないと思いますが、常に武器を持っている武士が起こす「トラブル」が行き着く先は「殺し合い」です

 「無礼な奴め」と武士を激昂させた時にはもう明日はありません。また「無礼なふるまい」が本当に無礼であったのかも現代の調査からは不明で、真偽の怪しいところです。またこれも容易に想像のつく話ですが、トラブルが特に起きるのは宴会でした。酔っ払った人間同士、場合によっては誤解が発展、ついには刺し違えて果てることもあったそうです

 鎌倉幕府基本法典である御成敗式目ではなんと「悪口(あっこう)」が禁じられています。過激な例だと、単にほほえんだだけでも相手に嘲りと受け取られて殺される例もあったそうです。恋愛感情に基づくトラブルも勿論あります。「いつどういう理由で死ぬか」が現代とは比にならないほど「読めない」時代だったことが明白に解りますね

 室町時代になると、京都への武士の集団移住によって社交の機会や接触が増えました。これはつまり、トラブルの範囲も増えるということです

 抑圧されたストレスの爆発は、暴力への発展を容易に許します。先程の「嘲り」で斬り捨てられる例が良い証明になっていますが、中世人はどうも「誇り」を非常に重んじたようです。身分社会で主従コードは常にありますが、中世人にとって最終的に価値があるものは内的倫理や体面であったと推察できます。突発的な暴力の土台を形成していた大部分はここにあり、自他を問わない生命の軽視と表裏一体だったんですね。安土桃山から江戸初期を知るヴァリニャーノは彼自身の見聞を基に「日本人の悪徳」というものを指摘しました。『日本巡察記』では「主君に対して忠誠心が欠けている」云々、と分析がなされています。近代以降になって美化された「武士道」や「侍」と中世の武士の在り方はだいぶ異なっていることも同時に知ることが出来る、正に貴重で優れた報告だと言えます

 武士が武力をいつでも行使することの出来る存在だったのは中世日本においてであり、これは本領を発揮していた、とも言えますが、実態はむしろ、先にヴァリニャーノが指摘したようなものでした。「下克上」上等、主君はむしろ自らが選ぶものという世界観。極めて功利的な判断で動いていた武士像がここで浮かび上がります。武士にとって主従関係はあくまでも互恵性が大前提とされていたのですね。ヴァリニャーノはキリスト教の宣教師だったので誇張がある可能性は考慮しますが、彼は日本人の残忍性を指摘してもいます。「切腹」は武士である自らの誇りを最終的に保つために「容易に」行われたそうです。内心引くに引けなかったのでは、などお私は邪推しますが、それでも彼等はやり切ったので、流石と唸らざるを得ません

 

 と、長い導入を経てやっと本題に入りますが

 

 さてここで出てくるのが、「相論」という言葉です。これは便利な言葉で、中世では紛争や訴訟をひっくるめて、そう呼んでいました。列島全体を覆うような統一政権が成立していない中世では、法制度が未成熟でした。訴訟に関する考え方の基本は二つ、「当事者主義」と「自力救済」。前者は当事者の行動がなければ裁判には至らないとする考え。後者は問題解決は当事者が能動的に行うとする考え。詰まる話「全部は面倒見切れないよー」って話ですね。そして治安の荒廃を招くのは、言うまでもありませんが、後者です。これが場合によっては私戦にまで及びました。自らの手で立場を回復せよ! というのですから当然ですね。なので、豊臣秀吉は「惣無事」という平和令を発布して、勝手に「自力救済」を行った者には磔等の厳しい処罰を下したわけです。中世から近世にかけての世相の変化は、「自力救済」を否定する統一政権の誕生と軌を一にしています。その前史である中世社会においては権力が分散していたので、訴える先が決まっていなかったと。治安は最悪でも、選択肢があるって素敵ですね! こうした事情によって、中世人には自分にとって有利な判決をもたらしてくれそうなところに訴える判断力が求められたのです。どこまでいっても功利的・打算的

 この中世日本人の基本的性格は、現代でいう「警察」も例外ではありません。中世の訴訟に関する考え方の基本は「当事者主義」です。これは、当事者の行動がなければ裁判に至らないといったものでしたね。現代はそれと真逆の職権主義です。ですが、当時は「検断」によって犯人の財産を没収することが出来る「検断得分」が存在しました。よって、権力が恣意的な検断をすることも少なくなかったわけです。権力に対する批判の声が上がること必至ですが、まあ、彼等からすれば「どこ吹く風」といったところでしょう。凄まじい時代です

 ここまで読まれた方にはお分かりかと思いますが、中世人の精神性として、一度敗訴したくらいでは簡単には引き下がらないんですね。自己の立場の回復に積極的なわけです。そこで何をするかというと、越訴を行います。中世での越訴は「再審の請求」です。その全てに取り合っていたらきりがないので、権力者、というかまあ、例えば鎌倉幕府は越訴を制限しようとします。じゃん、不易法の登場です。「過去のある時点から古い判決は再審しないよ」と突っぱねます。しかし、そこで工夫を凝らすのが中世人。権力者に訴訟を代行してもらう「寄沙汰」を巧みに利用してすり抜けようとしてきます。そして、これは非合法ではありますが暗黙に承認されていました。これには比叡山延暦寺等の山門が絡むので、向こうも面倒は避けたかったのでしょう

 この「寄沙汰」を知った時、私はハッとしました。中世人にとっての「自力救済」は、必ずしも最終的な相論解決の担い手が自分自身であることを意味しなかった、ということに気付いたのです。中世人にとってのトラブル解決とは、相手を承伏させたという結果を得ることが不動の第一義であって、物事の筋といった道徳的正しさやかくあるべきといった意識は、存在の如何にかかわらず、行動の指針として外化されることは無かったということです。もちろん、学者じゃないので、この考察が完全な事実誤認かもしれないという可能性も考えますが、それにしてもちょっと衝撃というか、これは私にとって大きな発見でした

 でまあ、話は戻りまして、中世社会では公権力が介在する法廷での紛争解決以外にも、様々な慣習が展開していました。例えば「故戦防戦法」。故意に戦を持ち込んだ者は重罪、戦いにさらされた側は減刑や無罪、という決まり事です。結局、泥沼化するんですが。重要なのは、「相当(あいとう)の儀」です。これは報復の暴走を抑止するために設けられたルールです。争いが起きた際の解決手段として、衡平感覚に基づく相殺主義が採られました。互いの被害の釣り合う点を落とし所にして、あとは水に流そうという平和的とも悪魔的とも取れる発想法です。これ、当事者だけではなく、当事者が所属する集団含めて「釣り合わせ」が行われることもあったんですよ。無関係の者が巻き添えを喰うわけです。かつ「相当」はあくまで主観に基づくものなので、過剰に至る皮肉も含んでいました。ですが、理念的には広く支持されていたようです。破局的結末に至るくらいなら痛み分けをしようという、合理的な思考を働かせる中世人の側面を、ここに見出すことができそうです

 ここまで長々と書きましたが、強調したいのは次のことです。ずばり、中世人には「残忍性」や「野蛮さ」という、当時の宣教師や現代人の目を通して否定的に捉えられる性格がある一方で、損得勘定や功利的判断という、一見して正反対に思える要素もそれらと対立することなく基本性格として併存していた。…だけではズッコケなので、これをヒントにして、先に取り上げた「寄沙汰」と「相当の儀」に共通するものを指摘したいと思います。それは、理非に対する結果の優位と、「代理」の観念もしくは感覚です。前者はすでに書いたことですね。なので後者の「代理」について。これは、個人が引き起こした問題に責任ある主体として率先的に振る舞うことに対する内的な要請の弱さを表すものです。寄沙汰では権力者への相論解決の委託、相当の儀では共同体への責任の分散として、それを認めることが出来ます。その上で私が考察したいのが、同時代に存在した「解死人」という制度

 「解死人」というのは、謝罪人の一種です。一方の敗北がほとんど確定的だとか、そういったトラブルのおおよその決着がついた時に出て来るんですね。この解死人、原則として生命の保証はありません。「は?」と思われるかもしれませんが、ありません。相手は謝る人間を見て優越感や名誉心を満たして許すこともあるかもしれませんが、場合によっては無慈悲に殺されることもあります。もう、ドン引きとかそういう次元を超えてますね。正気ではありません。解死人の主要な構成員は下層民でした。この制度については色々な切り口があると思いますが、こと日本人の精神性という観点からこの解死人制を見ると、意外な現代との繋がりが見えてくるのではないだろうか…と私は考えます

 前述した、中世人の功利的側面を構成していた理非に対する結果の優位と「代理」の観念もしくは感覚は、日本人の気質として現代に引き継がれているのではないか、という仮説です。それに付け加えて、記事の前半で言及した中世における武士身分の「名誉」観念は、現代では「世間体」へと一般化された形で継承されているとは言えないでしょうか。これを巧みに経済化したサービスがありましたね。そうです、「謝罪代行」。あるトラブルに際して、依頼者の身代わりとして謝罪を行いその報酬を得ることを事業としている謝罪代行会社は、利用するものと利用されるものとの関係性が逆転しただけで、構造的には中世社会における解死人制の反復と捉えることが出来るはずです。2013年に『謝罪の王様』という映画が公開されました。宮藤官九郎が脚本のコメディです。この作品では「謝罪師」を名乗る職業人が主人公となり、そこそこのヒットを飛ばしたそうです。そして現実に記録・報告されている大量の謝罪代行サービス利用者数は、中世にまで遡る日本人の精神性の一側面を伝える立派な証拠です。私はここに、中世の一制度という枠を超えた「解死人」の現代性を認めたいと考えています

 

 中世日本に関しては奥深さを感じながら知らないことだらけで済ませているので、色々と本を読んでみたいと思います。働き始めたら歴史の話とか出てきそうですし。サラリーマンって好きですよね日本史。まあその気持ちはわかるような気がします

ではまた